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三良坂での講演で。山代巴に出会う。

 昨日は、三次市の中学校で生徒と保護者と先生方に講演をしてきました。しかし、まいった、まいった!です。手は大丈夫なのですが、先日来風邪を引いてしまって。それも、原因ははっきりしていて、クーラーが強すぎました。ああ、クーラーの風がいやだ!と思ってほどなく、のどがおかしくなりました。インフルエンザではなく、単純な風邪なのですが、でも、前夜熱が出ました。仕事から帰って、顔が真っ赤になって、計ると38度ありました。薬を飲んだり冷やしたり、一晩、うんうんとうなって過ごしました。

 で、結局車の運転はあきらめて、高速バスにしました。三次バスセンターから先は、主催の市の方にお願いして、車で連れて行っていただきました。バスを降りる直前にも薬をのんで、講演の間中薬が効くようにしたら、ずばりうまく行きました。二時間の講演の間中、咳の一つも出ず、無事終えることができました。

 中学生たちは、しっかりこちらをみながら聞いてくれて、うれしかったです。その後で、保護者の方に追加の話しもしました。私は、以前は生徒と保護者と別々の話をしていたのですが、今のご時勢、そうも言っておれなくて、一緒にするともあります。でも、それだけでは、とても不安で。大人の方にどうしても伝えておきたいこともあるので、追加をさせてもらいました。

 帰ったらぐったりだったけれど、今朝はもうすっかり元気です。

2009_08270008  それに、講演をした三良坂について、とてもうれしかったので。

 講演と同じ会場に「山代巴記念室」があったのです。びっくりしました。室には、山代巴の直筆の原稿や、使っていた筆や机など、沢山の資料が展示してありました。

 彼女は、あの戦前、戦中の困難な中、特高に逮捕され、獄中生活を送りました。夫や多くの仲間たちが、獄中で殺される中、生き抜きました。戦後はプレスコードの中、峠三吉などと共に、被爆の実態の調査や、被爆者支援の運動を進めます。また、女性の自立や、支援の運動も一貫して進めました。「荷車の歌」は全国に大きな感動を呼び、農村の女性たちのカンパで、映画化され、全国で上映されました。

 あの困難な時代に、こんなに地に足をつけた活動を頑張った彼女に、どれだけの人々が力をもらったことでしょう。この展示を見て、私もまた、大きな勇気をもらいました。

2009_08270012 そこに展示してあり、また、パンフレットにも載せてある文がまた、感動なのでここに再録します。

「激動の20世紀、その最後の年に山代巴記念室を開設する。/山代巴の「荷車の歌」は、困難な戦中戦後を生きた農村の人々に大きな感動を与えた。彼女は自立と連帯の在りようを飽くことなく表現し、日々の暮らしに人権と民主主義を深く求めんとした。/三良坂町は平和と人権と文化を大切にする町づくりを進めている。この取り組みに共感を覚え彼女は多くの貴重な資料を私たちに寄贈した。/山代巴記念室の開設は、新しい世紀を生きる一人ひとりが「現代の民話」を生み育むための彼女と三良坂町民の共同のメッセージである。/2000年4月/ご協力いただいた多くの方々に感謝して・・・/三良坂町 三良坂町教育委員会/※2000年4月1日に三良坂町は合併し、三次市になりました。」

 この記念室で、峠三吉の「原爆詩集」が展示してあったのです。次回、この続きを!


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コメント

山代巴と荷車の歌

おはようございます。今日は久ぶりの雨、先生は相変わらず忙しく走り回っておられる様子、素晴らしいです。

さて、三良坂で見たと言われる山代巴記念室。私も何度か訪問しました。彼女の名作「荷車の歌」は舞台が布野村です。
内容はご紹介の通りですが、布野では大きく取り上げられることは有りませんでした。それは、彼女の小説がフィクションと言いながら、あまりにも鋭い描写で当時の農村の恥部をさらけ出したと見られたからです。

その激震とも言える表現をヒロインの地元は受け入れることが出来ませんでした。小説の前書きの中には当時の村長のコメントも記されています。出来るだけ住民の名前は伏せたと記されていますが、私が中味を読みますと実名で登場させている部分もあり、良いことならともかく、搾取階級と決めつけた部分などをよしとしなかったのでしょう。

結局山代巴は三良坂の人となり、屋敷は作木の殿敷が紹介され、布野には何も残りませんでした。今の時代ではその頃の社会情勢も含め、冷静に判断出来るのですが、小説発表の頃、布野村(一部の有力住民)はこれを“負の遺産”と受け止め、排除したかったのだと思います。

歴史には素晴らしいものもある反面、戦争やそれに伴う苦しみ、悲しみなど、さらに人間が人間として生きるために取った手段、私たちはそれらをある一面からだけで見るのではなく、時代背景や心の豊かさの度合いなど広い視点で捉えることが必要だと思います。

河野先生が三良坂講演で、山代巴記念室を訪ねられたことを読み、いらぬお世話のコメントを投じてしまいました。

投稿: なんでも辛口 | 2009年8月28日 (金) 09時17分

なんでも辛口さま
ご無沙汰です。ええ、布野が舞台であることはよく存じています。これだけの日本中に感動を呼んだ名作ですので、今からでも、布野に何とかならないのかと思います。恥でも何でもない。あの困難な時代を荷車をひきながら7人の子を育て上げた女性の話は、布野を悪くするものでは決してないと思うのです。山代巴に感化された人、なんらかの運動を始めた人も沢山いるでしょう。誇っていいことだと思うのですが。10月11.12日には、布野の道の駅にはいらっしゃいませんか。こうのみよこ

投稿: こうのみよこ | 2009年9月 3日 (木) 21時32分

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