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私的平和考⑩原爆の被害・ケロイド

しばらくお休みしていたシリーズを再開します。

 このシリーズのはじめにも書いたように、40年前、私たちは、広島大学の学生を中心に被爆者青年同盟を結成した。全共闘運動が盛んな頃である。そのときの平和公園での座り込みをしている一枚の写真が、今回の集会のきっかけとなった。

 当時、デモをしていて、機動隊に阻止され、座り込んだところを引き抜かれて放り出された。さらに、うつぶせに倒れたところを、機動隊が盾をどんっと腰に振り下ろした。歩くことも立つこともできなくなるほどのその負傷の跡は、今でも時々疼く。

 その頃、私たちの活動をマスコミがいろいろ取り上げていた。その中の、東京から来たある週刊誌の記者とカメラマン。

「君たち、二世の中にケロイドのある人はいないかなあ。顔にケロイドがあるといいんだけど。」と言ってのけた。

「二世は被爆をしていません。だから、ケロイドはありません。」というと、

「あっ、そうか。二世と言うのは、ケロイドはないんだ。そうか、困ったなあ。うーん、ああ、そうだ。じゃ、母親だ。君たちの中に母親がケロイドのある人はいないかなあ。母親と子どもと一緒に写真を撮らせてよ。」

 まだまだ基町に「原爆スラム」とよばれる小さな家がよりそうように集まっている地域もあった。そこの写真を撮りに行くから案内してよ、という彼らに、一応付き合ったら、そこで歩いている私を了解もなく、いきなり写真に撮られた。それで私も切れた。彼らを置いて帰りながら、涙が出るほどの悔しさで、他の地域の人たちがどんな目で被爆者を見ているのか、痛みを噛みしめた。

 原爆によるひどい火傷で、顔にケロイドを持ったIさんの語りを初めて聞いたのは四年前。それからまた昨年、北海道からの修学旅行生と一緒にその方の話しを聞いた。

 女学生だった彼女は、全身焼け爛れながらも、本当に奇跡的に命を長らえることが出来た。元気を取り戻した後、友だちと遊ぼうと外に出ると、みんなが逃げていく。家中の鏡は隠してあったと。ある日、やっと探し出したガラス片で顔を見たと、自分の顔は全くなくなっていて、赤鬼のようなケロイドの顔であったと。

 やけっぱちになって学校もさぼりがちになっていた時、やはり学校をさぼって、そっと家に帰って、父親が近所の人と話しをしているのを盗み聞きしたと。父親は、被爆後、重症で家に寝ていて空襲警報が出ても、逃げることも出来なかった彼女と一緒にそばにいたと。もし攻撃されても、彼女と一緒にいてやろう、一緒に死んでやろうと思ったと。あんな顔になったけれど、彼女は強い子だから、きっと自分で人生を切り開いてくれるだろう、と。

 そう話す父親に目が覚めた思いであったと。それからの彼女は、大変な苦難の人生であった。顔は十数回手術を繰り返し、やっと自分の顔を何とか取り戻したのだと。

 涙々で聞く彼女の話、でも、はっと心うたれたのは、原爆の威力についてであった。

 約60kgのウランが投下された広島では、炸裂の瞬間、爆風の速度は1秒に推定4.4キロに達した。1キロ離れた場所で風速160メートル。爆心直下の風圧は1平方メートル当たり4.5トンから6.7トンにのぼった。半径500メートル以内では、住民は、特殊な場所にいたごく一部の人を除き、ほとんど蒸発的即死に近く、1キロ以内で五体がバラバラに裂けた。熱線の温度は爆心地付近で3000度から4000度。

 このような爆風と熱により、多くの市民が即死し、劫火の中で息絶えた。加えて、かろうじて生き残った人々も原爆放射能のために亡くなる人が相次ぎ、1045年末までの5ヶ月間で人口35万人のうち13万人から15万人もの人が亡くなった。

 原爆の風と熱の威力をあらためて実感を持って思い知らされ、鳥肌が立つ思いであった。

 今、つい私たちは原爆による放射能の後遺症に目を奪われ勝ちであったから。

 一般の戦災被害者との違いは、この放射能による後遺症という問題である。長い間生きぬいた被爆者が次々と癌に冒されていく。この人たちに対しての国家補償は、多くの被爆者のまさに命をかけた法廷闘争の中で、やっとやっとこれから先、実現されそうというところにきた。63年もたってのことである。

(この回、「ヒロシマは生きていた-佐々木雄一郎の記録-毎日新聞社」「ヒロシマは語る 平和学習のために-広島県原爆被害者団体協議会」)を参考、また一部引用しています。)


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広島ブログ

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コメント

先日、息子と一緒に資料館に行ってきました。

以前、先生もご紹介なさっていた『夕凪の街 桜の国』を一緒に読んでいたので、
皆実ちゃんが住んでいた辺りを通っていこうと
河川敷をずーっと歩いて行き、
「この切られたポプラの木は、マンガに出てたねえ」
などと話しながら、資料館に向かいました。

「この前、牛田の浄水場見学に行った時、
 そこのおじさんが、“母なる太田川”って言ってたよ」と息子。


その時私はふいに、
特攻隊員が「おかあさーん」と叫びながら散っていったという話を思い出しました。
人は死ぬ程の恐怖を前にして母を呼ぶという話。

そして、語り継がれている投下後の川の様子を思いました。
多くの人達が水を求めてこの川に向かったということ。
この川が、多くの、無理矢理いのちをはぎ取られてしまった人々の体をその流れの中に飲み込んでいく様子が、
我が子の亡骸を抱きかかえて悲しみに暮れる母親の姿に重なるように思えました。

「母なる太田川」・・・。


よそ者で、実相を知らぬ私のようなものが
こんな感傷的なことを書いては
叱られてしまうかもしれませんが、
この街に住んでいるものとして、
語り継いでいかねばならないものから目をそらさずにいなければと思っています。

投稿: Hoch | 2009年6月21日 (日) 11時47分

Hochさま
いつも有難うございます。彼も大きくなったでしょうね。職場、なくなっていましたね。今、どうなさっているのかと気になっています。彼にこれだけしっかり「平和」を伝えていることに、感動しています。きっとやさしい子に育ちますね。もう少し、平和考続けます。これからも寄ってくださいますことを!!こうのみよこ

投稿: こうのみよこ | 2009年6月22日 (月) 08時19分

こんにちは。
中区住吉神社前で広島唯一のバイク便
ハニー・ビーの吉正です。
FC2のブログを歩き
回っていたらたどり着きました。
東京や大阪では当たり前のバイク便。
でも、広島ではマイナーなんです。
少しでも広島バイク便の魅力をわかって
もらおうと、ブログをやっています。
よろしかったら覗いてください。
お急ぎの荷物、大手運送会社さんに
無理といわれたとき、
お気軽にお電話ください。何とかします。
これからも時々ブログを見に寄らせてもらいます。

投稿: 広島バイク便ハニー・ビー | 2009年6月22日 (月) 10時32分

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