私的平和考④被爆後すぐに被爆者の闘いは始まっている。
その峠三吉の墓標のことをある集まりで話した。その会の参加者はほとんどが私よりも年上で、戦争の体験を持った方たちだ。そして、その中のお一人が、福屋の上からビラを撒いた話をされた。峠三吉の原爆詩集には「一九五〇年の八月六日」という詩もある。福屋の上から撒いたびらがひらひらひらひらと。
その年、GHQによりあらゆる集会が禁止された。1947年、昭和22年から広島市が開催していた「平和集会」も禁止された。そのときに、ビラが撒かれ、大変な騒ぎだったと。多くの人がビラを追いかけ、手に入れようとし、でも、警察や消防車まででて、そのビラを取り上げる。
私たちに話してくださったAさんは、その翌年、1951年の8月6日にやはり福屋の屋上からビラをまいたのだと。撒いてすぐに逃げる。はて、エレベーターで逃げるか、階段で逃げるか。きっと警官はエレベーターで上がって来るだろうと判断し、階段を走って降りて逃げたのだと。
そのビラには、何が書いてあったのですか、と私は尋ねた。「反アメリカ、反核、反戦争」とAさんは言われた。そんなことを書いたものがなぜ犯罪になるのでしょう、とさらにたずねる。だって、もう新憲法が施行されて、言論の自由が認められていたのでは?
「勅令311号」。法律ではなく、天皇の命令として、法律と同じ効力を持った勅令。その311号は、「連合国占領軍の占領目的に有害な行為に対する処罰等に関する勅令」であった。アメリカの攻撃などとんでもない。同時に原爆の被害に関しても集会やビラなどは許されなかった。ビラを持っていただけで逮捕されたものもいる。
Aさんは、結局翌1952年5月3日に逮捕され、獄中に8年つながれている。
そう、物が言えない時代は、戦前の治安維持法の元だけでなく、新憲法が発布された戦後もそうだったのだ。
そんな中で、被爆し、家族を亡くした子供たちは、本当にこじきをしたり、泥棒をしたり、靴磨きをしたりして生き延びたのだ。それをまだ物が言えないときに、峠三吉はこれらの詩を作り、1951年、原爆詩集を初めはガリ版刷りで発行する。原爆投下から6年の後だ。
被爆者の戦いは、戦後すぐから始まっている。食べるものもほとんどないような時に。この墓標にもあるように、かくれるようにして始まった沢山の人の署名は、1950年から始まった朝鮮戦争でアメリカが検討していた核兵器の使用を阻止したといわれる。
こんな思いは、もう私たちだけで沢山だ。もう三度核兵器が使われることがないように。この思いが被爆者運動の根幹であった。被爆者が自らの体験を語るのも。
私は今、父の日記を読んでいる。昭和19年1月1日から始まったその日記は、昭和20年8月以降が何ページも切り取られている。(次回に続きます)

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