私的平和考⑤父の日記から。
父の日記は、昭和20年8月以後数ページに渡って切り取られている。その後、昭和21年8月26日から再び書かれ初めている。その欄外に「某国の悪口が多いので切り取ってすてる(昭和20年8月以後)」と書いてある。切り取ったあと、書くこともやめたようだ。
父は「GHQが突然入ってきて家の中を調べられて、もしアメリカの悪口や原爆のことが書いてあると、逮捕される」といううわさで、結局これを切り取って捨てた。と言っていた。戦後には様々なうわさが飛び散ったようだ。
一番読みたいところが捨てられている。がっかりだけれど。
父のアルバムにあった写真。「昭20.8.9. 8.6.に原爆投下、その惨害の跡、生徒の家の跡を尋ねて、この写真で生きているものは、小生1人です、昆虫の一匹も、草の一本も生物なし、誰が撮し、現像し、渡してくれたものか、全く不明」と書かれている。この文は後ほど1996.4.23に書かれたもの。
それにしても、真夏にこの格好は、一体どうしてだろう。でも、毎日新聞社の「ヒロシマは生きていた-佐々木雄一郎の記録」の写真を見ると、原爆直後、みんなまるで冬服のような格好をしている。夏といえども、目立つ白い服は着れなかった、というのだが。
再開された日記の最初。
「ちょうど一年余り日記をつけることが出来なかった。本日よりまたはじめる。去年の原子爆弾、無条件降伏、其後の一年は全く早いものだった。民主心に向かって驀進した。今日やっと人心が少しは落ち着いて来た様である。新日本の建設に向かい尽力すべきである。・・・」と書かれている。
父の日記は、特に戦争中、その直後は涙なしには読めない。父がいかに家族を大切に、私たち子供を大きな愛で包んでくれていたか、いまさらながら、感じ入って。また、同時に教師として、生徒のことが毎日毎日書かれている。
こうして全く偶然にも父が生き残り、母たちは父の実家の島根の赤来村来島に疎開して無事だったために、私も生まれることができた。偶然とはいえ、この幸運にあらためて感謝する。
日記には、食料のことも良く出てくる。配給で買った麦を粉にした、とか。今日はめざしがあったとか。父の誕生日はかまぼこで祝う、とか。今から見ると、大変に貧しい食生活であるが、でも、先日行った友人の言によれば、「めざしがあるなんて、サイコウの贅沢。そんなもの、誰も食べることが出来なかった。何にも食べるものがなかったんだから。」とのことで、あらためてそうだった、と思い知った。
父は、農家の出身だから、実家から時々お餅を戴いてありがたいことだ、と書かれているように、いろいろと支援して頂いたようだ。当時としては、大変に恵まれた環境であったといえよう。

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コメント
はじめまして。広島ブログからきました。
お父上は良いものを残されていると思います。私の祖父も戦時中、戦後の記録を残してくれました。涙なしでは読めないところもあります。
戦後はGHQの検閲や出版図書の没収は厳しかったようですね。焚書は一般家庭や図書館のものは対象となりませんでしたが、検閲を含めてこうした行為は一般市民には恐ろしかったことでしょう。
投稿: JJ太郎 | 2009年5月30日 (土) 13時54分
自分の記憶の中にある先生が、あのヒロシマに立っていらっしゃる…。
戦争を知らない私にはとても不思議な感覚が駆けめぐります。
やはり戦争は実際に起こったことなのだ、原爆の投下も実際にあったことなのだと、心から実感できた写真です。
この写真を拝見できて、私は幸運でした。
投稿: うさこ | 2009年5月30日 (土) 22時08分
JJ太郎さま
ええ、本当に父は、自分の日記をも危険だと感じたようです。まだまだ父の日記を読む作業が続きます。コメント有難うございました。こうのみよこ
投稿: こうのみよこ | 2009年6月10日 (水) 01時52分
うさこさま
私、この父の原爆の廃墟の写真と、もう一枚、うさこ様から戴いた最後の授業の写真、この二枚が私の宝物になりました。本当にあの写真を戴いたこと、心から感謝しています。有難うござまいした。こうのみよこ
投稿: こうのみよこ | 2009年6月10日 (水) 01時54分