私的平和考⑥リンゴとだんご。食べ物考。
めざしが贅沢だったといった 私が訪ねた友人は、被爆当時女学生だった。宮島から広島に通っていたと。そして、戦後のある日、船を下りた桟橋で、「りんご」を目撃したのだと。「わあ、りんごだ」と。ものすごいものを見た、その強烈な感覚が今もしっかり残っているのだろう。60年以上経った今でもその記憶は鮮明だ。
峠三吉の「墓標」にかかれている「リンゴも匂わない / アメダマもしゃぶれない」という一節とそれは私の中で結びついた。
父の日記にある私の三歳の誕生日。「おダンゴを作って祝った」とある。団子はよく食卓に登場した。米を粉にして水を加え練る。今の団子の粉のようにあんなにさらさらもちもちはしていないが、よくだんご作りを手伝わされた。私は今も手でだんごを作るのは上手だ。あの頃、父の育てた大豆を家で粉にして作ったきなこをまぶして食べるだんごは美味だった。
または、時々「夕飯はダンゴ汁、馳走だった」との記述もある。もちろん、ほかに具などほとんど入っていない、今のダンゴ汁とは似ても似つかない汁だけのだんご汁であるが。
団子なんて、これもサイコウの贅沢だったと、その友人は、また言った。本当に食べるものがないんだから、と。
先述の「ヒロシマは生きていた-佐々木雄一郎の記録」には、戦災孤児収容施設「光の園」の子供たちの写真もある。「礼拝する表情はなにかを訴えかけるよう」と。
そこの証言、廿日市の青木喜代子さん「戦後、広島には戦災孤児の収容施設が次々に誕生した。私が院長をつとめる「光の園」もその一つだ。国鉄広島駅などで浮浪生活をしている子供たちを連れ帰ったが、腹はすかしているし、タバコは吸っているし・・・。でも、施設に入れても満足に食べさせるものがあるわけでなく、毎日ダンゴ汁ばかり。フトンがないので床の上に寝かせ、1枚の毛布だけで寒さをしのいだものです。」
ああ、ここにもダンゴ汁だ。
父の日記によると、7月1日呉に空襲。3日、24時前よりまた空襲警報となる。こどもを丈夫に育ててくれるように祈るのみである。妻子の無事成長を祈る。5日、今日も異状なく、昼間を過ごした。今夜当たり最も注意を要する。頑張ることだ。必ず勝つことだ。子供を思う。神様を祈る。お願いする。8日、敵機大挙来襲の報にて、早く帰る。
というような緊迫した状況の中で、7月6日「午後早く帰って米五升くらい、醤油一本、焼き物など埋めた」とある。当時、南観音の田中さん(今もある米屋さん)のうちを借りて住んでいた、その庭に埋めたようだ。
原爆により、家はぺちゃんこになったと。とても大きな石が居間の屋根を砕いていたと聞いている。でも、家は焼けなかった。だから、衣類を引っ張り出し、何よりこの日記帳も無事掘り返したようだし、それに庭に埋めた米などで生き延びたようだ。全く、父の知恵はすばらしい。でも、一体、どこで寝たのだろう。
我が家は、恵まれていた。戦後米よりも芋が多かったが(だから4歳違いの姉は今もサツマイモが苦手だ。私は、御飯の代わりの芋は甘みがほのかにあって好きだった)それでも、父もいて、母もいて、何かを食べさせてくれたのだから。
今のこの世の中、選挙がらみで「平和じゃめしは食えん。」という馬鹿なことを言うやからがいる。ご冗談を!! 平和でなければめしは食えない。戦争が、いかに庶民の生活を圧迫したか、食べ物をなくしたか、命を奪ってきたか。それを痛感しているのがヒロシマではないのか。心からそう思う。
(このシリーズを書くのには、大変な労力です。沢山の本も読んでいます。泣き泣き書いていることもあります。皆様のコメント有難うございます。なかなかお返事をかけなくってすみません。コメントを戴くことは、私の大変な力になっているのに。ごめんなさい。感謝しています。)
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