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恩師、松尾吉恭先生に感謝。

 その昔、私が大学の学生だった頃、全共闘運動が負けていく過程で、私は連日多くの逮捕された学生の差し入れや面会や保釈申請や、裁判の傍聴などなどで走りまわっていた。

そのうち、停止していた医学部の授業も始まっていたが、私はそれに出席する時間的、意識的余裕もなく、ただ横目で見ているだけだったと思う。そうこうしていたら、私は教授たちの何人かに呼び出されるようになった。

 基礎の実習を受けていない私たちに、先生たちは、このままだと留年するようになる。補修をするから、出て来なさいと言ってくださった。きっと先生たちからは恨まれているに違いないと思っていた私たちにとって、とても暖かい言葉であった。

 同じように授業に出ていなかった何人もの学生たちで話しあった挙句、私たちは実習の補修をしていただいた。その上で、期末の試験を受けた。

 試験も済んだある日、ある授業で、教授が一枚の紙を学生全員に配られた。そこには、学生の一人が書いた先生あての匿名の投書がコピーされていた。投書には、私ともう一人の学生の名前が書かれており、この人たちは実習を受けていません。実習もしないで、試験を受ける資格はないと思います。というような趣旨が書かれてあった。

 それを配られた先生は、この試験をうける資格があるか否かは、先生が決めること。この人たちには、実習は補修で受けてもらっている。さらに、この人たちは、学生運動の後始末をしていたと聞いている。運動もほとんど終わった今、学生同士でこの様な中傷をするのでなく、クラスでまとまるべきではないのか、などとこんこんとお話しをされた。その上で、この件について、みんなで話し合うように、といういう指示をされた。

 投書の主は、その筆跡から私には明らかだった。何しろ、そのままのコピーなもので。学生運動に批判的な女子学生だ。

 学生運動は、学生同士、深い傷をも残したと思う。私は、その教授に心から感謝をした。私たちの行動は、もちろんまっすぐに社会や大学や医療を見つめた上での行動であったのだが、それでもほとんどの先生たちにとっては、迷惑至極であったであろうと思う。

 無残な負け方をする中で、挫折感や、後ろめたさや、何より授業を受けなければならない先生たちに、どう思われているのか、知らぬ顔をして授業をうけてもいいのかなど複雑な思いで、なかなか授業には集中できないでいた。それはまた、このまま医師になってもいいのだろうかという逡巡ともなっていく。

 そんなときにこの先生の行動は、私たちにとってとても暖かいものと響き、心打たれた。

 いつか、その先生にお礼に伺いたい、と思いながら、それも果たさないままに40年が過ぎて行った。昨日、その教授、松尾吉恭先生の訃報を新聞紙上に見た。ほぼ40年ずっとずっと心に抱えたまま、なぜ私は先生を訪ねることをしなかったのだろうか。思ったことはすぐに実行しろ、そうしないと、きっと後悔することになる、これはわかっているはずなのに。

 松尾先生。温厚で、人格者であった先生に、心から感謝申し上げています。あの時、私はやはり授業を受けて、医者になろうかとそう思いつつあった、それを後押ししていただいたのです。先生の暖かさは一生忘れません、と、これをお伝えする機会を私は永遠に失ってしまった。

広島ブログ

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コメント

私たちの頃までの先生には深みがあったと思います。

私も、教養の時にチューターをして下さった後藤陽一先生(故人)に救われました。学生運動の頃はいつも先生は怒っていました。僕たちの顔を見ては大声で、「君たちは間違っている。勉強しろ勉強!」と。

もちろん私たちは、「君たちがそんな悠長なことを言っているからヴェトナムで人が殺されていくんだ!研究を辞めてデモの先頭に立て!」と。

ところがそんな先生が、我々にしてくれたことは、逮捕された学生の身元引受人だったり、保釈の引受人でした。

それから25年ほどたったあるとき、同じチューターの学生が集まってささやかな喜寿のお祝いをしました。随分足腰が弱られていて、仲間の一人がご自宅まで迎えに行って出席して頂きました。
集まったのはほとんどが全共闘運動を闘っていた人間でした。先生は本当に涙して、「あの頃はよかったよな-、学生が元気があって、よく議論したよな-」

一人一人の名を上げて、本当に懐かしそうにお話しなさっていました。
もちろん、私たちの誰もが、先生の懐の深さに感謝していたのですが、改めて直接そう言われると、自分達の行動の正しさを認識したのでした。

そんな先生に、後日、初めて書いた本を手渡すためにご自宅へ伺いました。足が不自由なので、予め時間をかけて、二階から降りてきて下さっていました。

「あの山中が本を書くんだから、これほど嬉しいことはないよ。」と、我がことのように喜んで下さいました。

米寿のお祝いもしましょうね、と申し上げましたが、結局それは叶いませんでした。

今自分が教壇に立って、果たしてどれだけの素養と人間の深さが備わっているかと自問してみると、とてもあの時代のあの先生方の足下にも及ばないことを自覚する毎日です。

どんどん社会が薄く、軽くなっていくようで残念です。

投稿: yaasan | 2008年7月10日 (木) 06時01分

河野先生
 先生の今のお気持ちが心に沁みてきます。何で行動を起こさなかったかと悔やむことは私にもあります。でもこの恩師の先生は素晴らしい人ですね。本当に優しい人は主義主張や立場を超えて、強く人を愛することができる人なのでしょうね。ひとをひととしてそのままで見たとき、手を差し伸べようという気持ちを実行できる人は、本当に素晴らしい方だと思います。その出会いこそが今の河野先生をつくっていらっしゃるのではないですか?そして、きっと河野先生に触れ合った人に同じような影響を与えているのではないでしょうか。これからも先生、ブログのみならずたくさんの人に出会って、たくさんの人の心に残っていってください。世の中って、そうやって少しずつ変わっていくのかもしれません。

投稿: おとぎぞうし竹本 | 2008年7月10日 (木) 08時21分

あの時訪ねて(聞いて)おけば良かった

先生の恩師に対する感謝の文章を読ませていただくと、その思い、心当たりがあります。

①先日歌人中村憲吉ゆかりの「しがらみ短歌会」での話です。Mさんという老婦人が詠んだ歌を説明するとき、亡き夫が「トンビとカラスが追いかけっこをするのは意味があるんだ」と言ったのに、それを聞き流して、今は聞くことも出来ず悔やんでいます

②私事ですが、父は教員でした。姉弟が6人で長姉は教員になりましたが、父亡き後の母は残る5人に教員になれとは一度も言いませんでした。何故?いつか聞いてみようと思っているうちに母も鬼籍に入り、聞くことも出来なくなりました。

やはり思ったことは行動に移しいておかないといけないと、先生の記述からも感じ、深く反省しています。

投稿: 升井紘 | 2008年7月10日 (木) 09時33分

恩師のご冥福、心よりお祈り申し上げます。
今日の記事を読ませて頂き、思わず涙が出てしまいました。
まさに、良き子弟関係ですね。
今のように、ワープロもパソコンもない時代・・・手書きがそのまま、残ったのですね。
中傷された方も、きっと恥ずかしい思いをされたことでしょう。
良き師がいて、良きドクターが誕生したのですから・・・人生って、やっぱり素敵ですね。
「千の風」ではありませんが・・・師の思いは、受け継がれて、今も、見守られておられることと思います。
熱き学生時代そのままの、いつまでも、熱き思いを持ったドクターを声援させていただいております。

投稿: さくらこ | 2008年7月10日 (木) 16時49分

恩師に自分の気持ちを伝えきれないうちに訃報を聞かれた河野さんのお気持ちが痛いほどわかります。
私も中・高校時代を通して「あなたが僕たちの仲間になるのを待っているよ」といって常に国語の先生になることを温かく見守り、応援してくださった先生が、突然事故でお亡くなりなってしまいました。高卒後も
大学進学することを期待してくださって、参考書をくださったり、いろいろな支援をしていただきました。しかし、先生の存命中に夢を果たすことができませんでした。私が先生の望みどおり大学へ進学したのは、
お亡くなりにった6年後。私の社会人の大学入学をを知らせる新聞記事を恩師の奥さまは、仏前に供えて
涙したとおっしゃいました。
長い人生の中には、思いがけないこと、儚いこと、思いながら果たせなかったことなど・・・あります。
河野さんの今の大活躍を恩師は、きっと喜んでおられたことでしょう。そして・・・・今も先生を見守っていらっしゃると思います。

投稿: eastwaterY | 2008年7月11日 (金) 21時08分

亡くなられた先生の恩師は、訪ねていかれなくても、先生のその後を見られていたと思います。
河野先生の社会貢献には、喜ばれていたんじゃないかと思います。
医療の現場で頑張り、また講演という形で、多くの若者が心も体も傷つかないように、ある意味予防医学されていますから。

恩師の先生のとられた行動は、「医は仁なり」といことをされたように思います。

その教え子の河野先生もまた、「仁」を実践されているように思います。

また、記事にされた大学病院のスタッフもそうだと思います。

そういえば、卒業生の寄付で建てられた医学部の講堂にも「仁」の文字が入っていますよね。


投稿: やんじ | 2008年7月11日 (金) 22時00分

yaasanさま
コメント、本当にありがとうございました。頂いていながら、お返事が遅くなってすみません。後藤先生、そう、懐かしく思い出しました。あの頃、主義主張は違っても、教師として学生を心から愛してくださった先生たちが沢山いらっしゃいましたね。その意味ではよき時代だったと思います。今、どこの大学にも、学生運動ってないのですね。今度、お会いするのを楽しみにしています。ありがとうございます。河野美代子

投稿: こうのみよこ | 2008年7月13日 (日) 22時14分

おとぎぞうし竹本さま
いつもいつもコメントで励ましていただいてありがとうございます。ええ、立場を超えて人を愛するということがこのごろの人には少なくなってきたと思います。恩師は本当に人格者でいらっしゃいました。私も、そうあるべくいましめなければ、とあらためて思いました。河野美代子

投稿: こうのみよこ | 2008年7月13日 (日) 22時19分

升井紘さま
いつもコメントありがとうございます。升井様のブログ見て反省しました。コメントのお返事が遅くなってすみません。ごめんなさい。いつか、農場を見学に行かせてください。すばらしいですね。恩師の死にはいろいろな反省をしました。これら悔いがないように生きなければ、と思います。ありがとうございます。河野美代子

投稿: こうのみよこ | 2008年7月13日 (日) 22時30分

さくらこさま
いつもありがとうございます。コメントで励ましていただくこと、感謝です。そうですね、恩師の意にそむかないように、自分を戒めようと思います。河野美代子

投稿: こうのみよこ | 2008年7月13日 (日) 22時34分

eastwateYさま
そうだったのですか。east様にもそのような恩師との交流がおありだったのですね。お互い、恩師の意に報いるように頑張りましょう。ご活躍、聞いて降ります。今度お会いできるのを楽しみにしています。河野美代子

投稿: こうのみよこ | 2008年7月13日 (日) 22時37分

やんじさま
励ましていただいてありがとうございます。ええ、広仁会ですね。医は仁術なりの言葉は死にかけていますが。おかげさまで久々に思い出しました、というより、思いを新たにしました。ありがとう。河野美代子

投稿: こうのみよこ | 2008年7月13日 (日) 22時39分

はじめまして、私は松尾吉恭の息子です。父の記事をネットで調べていて見つけました。今年で七回忌になります。私も実家に戻り、お墓は五日市の観音台近くに建てました。次に墓参りに行った時に父の教え子さんがブログで父の事を書いておられましたよと報告しようと思っております。有難うございました。

投稿: 松尾 理 | 2014年2月 4日 (火) 21時48分

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