ウォーキング(1)歩きながら父を偲ぶ
今もまだウオーキングは続けている。一日置きに「やまとの湯」のお風呂に入りに行く。ウオーキングもして、それからお風呂で、とやっていたら、あまりに時間がなくって、寝る時間を削るようになってつらいので、結局、お風呂の日とウォーキングの日と交互にするように落ち着いた。夕食後しばらくして、ハングルや英会話のある日は、帰って来てすぐに出かける。大体、一時間から二時間、その日の気分によってどこを歩くかを決める。
昨夜は中島町の家を出て、西へ。平和大通りをまっすぐに観音を過ぎて己斐の西広島駅まで。そこを南に下って、庚午から二号線に。それを伝って、帰って来た。早足で一時間半。歩くだけでも結構運動になる。橋を渡る時はかなりの勾配があって、息が弾んだりする。
己斐の駅から庚午に行く道に小さなお見せが沢山並んでいる。私が子どもの頃、住んでいた観音から己斐に行き、そこで洋服などを買ってもらうのが昔の私たちの楽しみだった。今も同じような作りのお店が並んでいるが、お店の種類は全く異なっている。当時は、ほとんどが衣料屋さんだった。
そこのお店に観音高校の定時制に通う生徒さんが勤務をしていた。父は、長い間社会科の教師として授業を教えながら、定時制(当時も今も珍しい昼間の定時制である)の主事をしていた。日曜日、私と妹の手を引いて、その店を何軒か廻り、生徒さんに声をかけ、お店の経営者と話しをしていた。私たちは、その間、外で待っている。父は、子どもの私から見ても、教師の中の教師。生徒を真から愛するプロの教師だったと思う。
庚午から二号線の上りを歩くと、新旭橋になる。この橋は、先日腐食が心配で調査をするなどと報道されていた。これは、私が小学校の三年生の時に完成した。原爆からほぼ10年。三つのアーチの吊り橋で、当時としては、大変豪華な画期的な橋だった。出来上がってまだ開通する直前。父と妹と三人で橋を見に行った。誰もいない直線の広い広い橋。そこで父が「走ろう!」と言った。三人で橋の上、もちろん車道をキヤーキヤー言いながら、思いっきりかけっこをした。
教師であると同時に良く子どもをかわいがる父親だったと思う。私の高校時代、受験勉強でくさくさしていた時、父に出かけよう、と声をかけられた。そして、父と母と私の三人、縮景園の梅を見に連れて行ってくれた。もうすぐ試験という気持が焦っていたとき、のんびりと公園を歩いて梅を見て、心は安らいだと思う。
そして、思いは、父が倒れていた時になる。それを見つけて必死で人工呼吸をして、救急車を呼んで、それから長い間意識がないままに闘病をして、でも、声をかけると涙を浮かべていて。倒れて一年後、意識がないのにとても苦しい下顎呼吸をして、苦しんで苦しんで死んでしまった事、などと、いろいろと思い出してしまった。
そのような、昨夜のウオーキングでありました。
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コメント
美代子先生、先日はお疲れ様でした。
私は日曜日久々に実家に帰り父と会っていました。
どうしても自分ひとりで母を介護すると言ってきかず、
市のケアサービスに援けていただきながら頑張ってくれています。
私ができることと言えば、たまに帰って父の話を聴くくらいの事です。
父には感謝しています。
先生がお父様の思い出を話してくださる度に、
私もいつかこんな風に思い出しては泣いてしまうんだろうなぁ・・と思ってしまい、
会えば喧嘩ばかりしていた父の話をゆっくり聴こうと思えるようになりました。
ありがとうございます!!
もう1本下の、庚午橋あたりまで歩かれたときには
ぜひ、うちに寄っていってくださいね。
投稿: kei. | 2007年12月 3日 (月) 16時24分
風景に想いでは、沢山詰っています。
時とともに建物や道路が変わっていても、
想い出のものは残っていますよね。
自動車では、すぐに過ぎ去ってしまう風景も、
歩くと沢山思い出すことができます。
旭橋はとても優雅な橋です。でも残念なのは隣に無粋な橋があるのことですね。
以前見せていただいた先生のお父様は、
とても優しい感じのひとでした。
原爆で多くの教え子さんを亡くされて、
とても辛かったのでしょう。
でも幸せになった教え子さんも多いのでしょうね。
被爆と病気の因果関係を、厚生労働省は全てを認めませんが、先日亡くなった友人の母も被爆者で、25年近く闘病生活をさていました。
戦後60年以上たっても苦しんでいる人は多いのに、お金の問題で救おうとしない厚生労働省。
その反面、防衛賞の無駄なお金の使い方は許せません。
本当の優しさや人を思いやる人に、政治や行政をやってもらいたいものです。
投稿: やんじ | 2007年12月 3日 (月) 19時27分
己斐から甲午
とても懐かしい響きの地名です。
私が3度目に広島を訪れたとき、泊めてくれた伯母さん?(遠い親戚-母の従姉妹の子?らしい)の家が確か甲午中1丁目だったと思う。
受験の時だったのでただひたすら大学(といってもその時は大学が封鎖されていたので、国泰寺高校の体育館だった。休憩時間中にグランドの端からシュプレヒコールを繰り返すデモ隊を見ていると、中にいた私服刑事に「受験生の見るもんじゃない!」と咎められ、「ほっといてくれ!」と応酬したことを覚えている)を往復しただけで周りの風景など見ている余裕など欠片もなかった。
国道に面した、何か小さなお店をやっていたお家だったので、ただ雑然とした風景だけがかすかに印象に残っている。
甲午から大学辺りまで結構あるが、貧しい我が家にとっては泊めてもらえるだけで十分だったのだろう。
その伯母さんが、2週間後に、中国新聞の合格発表の載る切り抜きを送ってくれたのがヒロシマとの本格的なお付き合いの出発点となった。
今は亡き伯母さんを「訪ねて」また行ってみたくなった。
投稿: yaasan | 2007年12月 5日 (水) 00時00分
kei.さま
そうですか。お父様がお母様の介護をなさっているのですね。うちもそうでした。そして、母が亡くなって、父が一人ぐらしとなって、我が家の隣に引っ越してもらいました。父は、何でも一人で出来る人だったのですが、段々と体も不自由になり、そして、少しずつぼけも来ていて、かわいそうでした。どうぞ、お父様孝行をしっかりなさって下さい。私のように、両親が死んでしまってからは、もう親孝行なんて出来ません。後悔のない様に、ね。11日にはお世話になります。どうしても、少しだけ遅れてしまうかも知れません。そうならないように、頑張って参ります。よろしくお願いします。河野美代子
投稿: こうのみよこ | 2007年12月 6日 (木) 01時49分
やんじさま
父は、実は、一面とても厳しい人でもありました。でも、本当に子どもをかわいがってくれていたのだなあ、とはっきり分かったのは、自分が子育てをしてみて、のことです。厚生労働省、政府の被爆者に対しての原爆症の認定については、とても納得出来ません。これまで、私の親しい人でも、一人で二つも三つも癌になっても、それでも原爆症と認定してもらっていませんでした。それに、今回の与党案でも、申請から8ヶ月以内に結果をだすようにだなんて、ふざけています。病気になってから申請をするのですから、8ヶ月も経つと、癌の方達の多くは死んでしまうでしょう。ああ、それにしても選挙通りたかったなあ、とこんな時につくづく思います。 河野美代子
投稿: こうのみよこ | 2007年12月 6日 (木) 02時00分
yaasanさま
お久しぶりです。ごぶさたしてすみません。そうなのですか。いつか、広島にいらっした時に、庚午にご一緒しましょうね。今も、国道沿いに小さなお店が沢山並んでいます。それにしても、yaasanさまは、あの時の受験生だったのですね。いろいろと過去を振り返ることが多くなった今、それも、年を取った事なのかなあ、と苦笑しています。奥様にもよろしくお伝え下さいませ。お菓子がおいしかったと。河野美代子
投稿: こうのみよこ | 2007年12月 6日 (木) 02時05分