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お願い

 連日帰宅が真夜中で、なかなかブログを書くことも思うにまかせません。

 昨日、いえ、もう一昨日になりますか、廿日市でねねさんのコンサートがありました。私は特別ゲストとして「いのち」の話をさせて戴きました。ねねさんは、もう40年近く前、「愛するってこわい」という歌を「ジュンとネネ」のコンビで歌い、大ヒットをしたそのネネさんです。時の流れの中で、彼女は素敵に年を重ねていました。本当に素敵なコンサートで、歌をききながら涙が出て困ってしまいました。

 私は初め用意していた話がネネさんの話と歌を聴いて、その場でがらりと変わってしまいました。「愛するってこわい」を英語でいうと(彼女はハワイで暮らしていましたから)「I am afraid of fall in love」というのだと。その「フォールインラブ」を聞いて、一人の男の子を思い出しました。彼は、とても事情があって生まれてすぐから施設に預かってもらってそこで育っていました。ある日、アメリカ人の夫婦が「養子を迎えたい」と尋ねて来られ、彼を紹介しました。何回もご夫婦は彼を家に連れて帰って一緒に過ごしました。そして、彼をいよいよ養子に迎えたいといわれた時、彼の生まれについて、ご夫婦に話しました。そしたら、ご夫婦は、真剣な顔で「私たちはこの子にフォールインラブなのです。どんなことを聞いてもこのラブは変わりません。もう、これっきり、このことについては触れて戴かなくて結構です。」と。その頃、彼は施設の保母さんにしかられました、そして、「マミィー、ダディー」と言って泣いたそうです。普通、「おかあちゃーん」と言って泣く、その対象がなかった彼が、「マミィー」といって泣いたと言うことを聞いた時、私も思わず涙ぐみました。こんな事を導入にして話しました。

 いのちの教育をせよ、と言われます。「いのちを大切に」と100回言ったって心には響かないでしょう。私は、いのちを考えるのは、まず死を考えること、そして、いのちの誕生を見ること。いのちの誕生の映画をみての感想文の紹介というような話をしました。それから、、今、巷にはこどもに向けてどんな情報が発せられているのか、ということも。そして今、いのちの教育が出来なくなってしまいました。具体的に言葉がり。中学生に性感染症を教えるのに、「性交」も「セックス」も「H」も言葉は使えません。これらの言葉を使う外部講師も呼んではいけないと。性感染症を教えるのにこれらの言葉を使わないで、どうやって?これらの言葉を使うと、性的に刺激をするから良くないのだそうです。そして、「性的接触」と言いなさい、とされています。今、若者達が「性的接触をしようよ」と言うでしょうか。まあ、こんな話をいろいろとしました。

 ねねさんも、良く聞いてくださって、それはそれで楽しい会になったかなと思っています。

で、皆様にお願いがあります。今日、31日木曜日、午後11時からNHKテレビの「日本の現場」という番組を見てください。ぜひ。私の親しい友人、性教育の大切な仲間、「山田泉」さんのドキュメントです。彼女のいのちがけの「いのちの教育」を見てください。彼女はこの3月に中学校の養護教諭を退職しました。保健室の先生、もっと続けて戴きたかったのですが、乳ガンに侵された体と、教育委員会に追いつめられての退職です。教育委員会の攻撃については、番組の中でどの程度描かれるかは分かりません。なにしろ、NHKですから。でも、もっと文科省や教委が彼女のような実践を大切にしてくれたなら、彼女は退職するとなく、もっと教育の現場にいたでしょう。こんなすごい先生、本当に生徒を大切にする教師がどんどん追いつめられてしまっているという現実、それと、いのちの教育というのは、こういうものなのだということを、どうぞ見て下さいませ。

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同窓生

 ある日、事務所に男がやって来た。高校時代の同期生。演劇部OB会のメンバーだ。「ここで待ち合わせをしている」と。へえ?私は知らなかったわ。私出かけるんだけど。と言うと、いいよ、出かけても。みんなでここで選挙を手伝うつもりで来たんだから、と言う。その内、またひとり、ひとりと集まって来た。平日の昼間に集まることが出来る立場の者たちだ。一人は保険の仕事。とてもよくみんなの世話をするので、誰からも重宝がられている。一人は失業中。親から引き継いだ会社が倒産して、次に作った会社もつぶれて一生に二つも会社をつぶす男なんて、そういるものじゃないなんて、自分で言った。彼は高校時代から文学青年だった。会社の経営なんて、あなたには最も向いてないものね、と私は彼に言った。一人は陶芸家。自分でスケジュールをきめられる。一人は四国で働いているが、仕事を休んで来てくれた。彼は大病をして傷がい者になったが、それなりに元気に過ごしている。以前息子がイラクに行く、と心配していたが、聞くと無事に帰って来たという。それは良かったねえ、安心したね、と私は言う。

 私は、じゃあこれやってね、とどさっと紙を持って来て、折る仕事を頼んだ。よし!とみんなで取りかかったのを見て、私は挨拶回りに出かけた。「行ってらっしゃあい」とみんな手を動かしながら言う。帰って来たら、まだみんなで仕事をしている。そして、今から、恩師の所に行く、と言う話になったらしい。出かける、というので、じゃあ私も連れてってと頼んだ。同じ方向にリーフレットなどを持って行きたい所が三カ所あるので、載せて行って、と頼んだ。ら、内の一人が私の運転手役をして、残りのものは先に恩師の所に行く、と言う。

 三カ所に挨拶がてら配って回った後、恩師の家に行ったら、先生はひどく喜んでくださった。忙しいのに、良く来てくれたね、と。で、公選はがきをどっさり引き受けてくださった。教師と言うのは、沢山の教え子がいるので、とてもありがたい。

 早々にそこを失礼して、今度は、同級生で仕事をしている者の職場に行く、という。スーパーマーケットをしている友人の所にみんなで行って、リーフレットなどを置いて来た。同級生というのは、本当に不思議だ。彼には久しぶりに会うのに、すんなりと、ああ、いいよ、なんて当然のような対応をしてくれる。

 そしてみんなで事務所に帰って、彼らはまた単純な作業をしてくれる。あれこれと話をしながら。「こうしてみんなで一緒の仕事をするのは、ひさしぶりじゃのう。何年ぶりかのう。」などと。だって、みんなでしたのは、高校時代の演劇部でしょう。40年以上も前のことなのに。本当に、すっと高校時代の延長のように、なにごともなく、さりげなく、会話もはずんでいる。で、今日はよう働いたのう、等と言いながら帰って行った。今度はいつ来るかのう、事務所開きには必ず来るよ、もっと沢山連れてのう、と。リーフレットも地域の人たちに配ってくれるとどっさり持って帰ってくれた。

 言葉通り、事務所開きには、30人を超す同窓生が来てくださった。事務所にいる友人によると、同級生の、それも男の人があんなにみんなで来て、仕事をしてくれるなんて、信じられない、と言う。そうね、それが同窓のいいところかね。まあ、私たち、せっせとOB会や同窓会や同期会をしているからね。と言ったが、本当にありがたくて。でも、これからだ。彼らがリーフ配りや電話作戦や、ポスター貼りなど、どれくらい協力してくれるか。きっと、さりげなく、それでも強力なグループとして動いてくれる、そんな期待をしてもよさそうだ。

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事務所開き

 事務所開きが終わった。今、みんなで来てくださった方々への礼状を書いている。本当に沢山の方が来てくださった。今朝方、緊張していたのだろう。うとうととしか出来ず、夢を見た。事務所の並べた椅子に誰も座っていなくて、ただ、スタッフがかべを背に立っているだけ。そこをテレビカメラが映している。だあれも、一人も来てくださらなかった。と、心が重く、つらくて、そこで目が覚めた。こんな会は、出欠を取るわけでもなく、また組織を持たないので、動員をかけることもできず、ただただ当日のその場にならないと分からない。本当に心配でつらかった。

 でも、会の始まるころには、会場はいっぱいになった。椅子と立っている人と、多くの方で会場はあふれた。ドクターや患者さんや高校の同窓会やみこし連の人たち、性教育仲間、秋葉さんの時とはまた違う雰囲気の人たちが多かった。おそらく、選挙なんて、事務所に行ったこともないであろう方達が多かったと思う。私は、そういう方達に期待するしかないのだけれど、いっぱいの方達を見て、やっぱりそれで良かったのかも知れないと思った。沢山のお花も戴いて、感激の極みだった。遠くは京都や徳島からも来て戴いて、本当にありがとう、ありがとう、の連続であった。

 それに、広島ブログのトップの塩爺さんにも来て戴いて、もう、バンザイ!で、皆様にもご紹介してしまった。塩崎さん、本当にありがとうございました。それに、やんじさんには、朝早くから来て戴いて、スタッフとして働いて戴いて。ひたすら感謝感謝。

 事務所開きが終わって、マスコミの取材も一通り終わって、そそくさとスパゲッティなどを食べて、それから、街宣に行った。できたてののぼりを立てて、子育てのイベントがあるグリーンアリーナへ。そこと、ナイターが始まる前の広島市民球場と、そして、本通りの入り口でマイクを握った。途中、地下街などで行き交う人たちに「握手をしなさい」とスタッフに言われるのだけれど、それが下手で。まだまだ握手がスムーズに出来るように練習をしなければ。 

 街宣を終えて、みんなで作業をしているところに、ねねさんが来てくださった。私たちの若い頃に一斉を風靡した、「じゅんとねね」のあのねねさんだ。いま、彼女は「さよなら戦争」とか、憲法九条の歌など、また、私たちの年齢を肯定的に積極的に素敵な年であるという、そんな歌を次々と歌っている。こんど、29日の午後二時から廿日市の「さくらぴあ」で彼女のコンサートがある。そこに、私はゲストで出演して、いのちの話やねねさんとのトークをすることになっている。

 彼女は本当に素敵な人だった。29日が楽しみだ。出来るだけ多くの方達に彼女の素敵な歌を、元気がでる歌を聴いて欲しいと思っている。

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広島空港は霧の名所?

 昨日の帰りのこと。福島県の県北、伊達市梁川町から阿武隈急行で福島市へ。東北新幹線で東京へ。山手線で浜松町へ。モノレールで羽田へ。そして羽田から広島空港へ。と、まあ、そんな予定だったのだけれど、羽田の、もうチェックインして待合室で待っている時に初めて知った。視界不良のために羽田に引き返す恐れがあると放送された。全国的に雨らしいけれど、そんなのは、広島空港だけだ。他のどこも順調に飛んでいる。もしその場合でも、宿泊の手配などはしない、その条件で飛びます、と。でも、そんなことを言われても、いまさら引き返して新幹線に乗り換えるなんてできはしないし。どうせ言うなら早くに手続きをする前に言ってよね、と思う。仕方がないので、従う。で、広島空港の上空まで順調に来た。外は、下界の明かりが良く見える。大丈夫だったね、と思ったら、広島空港は霧が深くて着陸出来ないので、旋回しながら天候の回復を待つ、と報告された。下には明かりが見えるのに。ふうん、と思いながら、でも、待てども待てども着陸しない。一時間旋回したところで、「羽田に引き返す可能性があります」と、言われ、やれやれ、まあなんと、なんて思っていたら、そしたら、やっと「着陸します」と操縦席からの放送があった。そして、無事着陸。でも、空港はもうもうと煙がでているようなひどい霧で、空港ビルがほとんど見えないくらいだ。よくもまあ、こんな所に着陸してくださいましたねと、感謝申し上げたいくらいだ。結局、午後8時50分着の予定が、10時10分に。はあ、くたびれた。

 もう、何年もまえ、最終の飛行機に乗ろうとして、広島空港に着いたら欠航という。早くに分かっていたら、新幹線に乗るのだけれど。広島ではそんな気配もなかったので、欠航なんて思いも寄らなかった。困った。明日の朝8時30分からのテレビの生出演がある。もう、どうしよう、と途方にくれそうだったが、ふと思いついて、三原に車を飛ばした。そして、三原駅でブルートレインを捕まえて、飛び乗って、東京へ。眠れないままに、たしか、8時10分ころに東京駅に着いて、迎えに来て戴いたテレビ局の車でぶっ飛ばして局へ。スタジオに走って、セーフ。ハアハア言う息を鎮めることもなく、「おはようございます。」とにこやかにカメラに向かって挨拶をしたものだった。まったくもう、冷や汗だ。

 どうして、こんなに霧が良く出るところに空港を作ったのだろう。今の西広島空港から本郷に空港が移る時に、天候が不良でも対応できる、と聞いていたのに。それに、空港に着いてから欠航と聞くのは、どうにもまずい。もっと道路のどこかに「空港情報」みたいな電光掲示板でも出来ないのだろうか。

 実は、昨日は広島に帰ってお寺の先生に会う予定を入れていた。すっかり遅くなったのだが、着いてすぐに連絡を入れると、待っているから気をつけていらっしゃいということだった。で、空港から廿日市の山のお寺へ車を飛ばす。先生とすっかり話しがはずんで、家に帰ったらもう午前一時だった。どうしても、明日27日の事務所開きの前に先生にお会いして、リーフレットなどを見て戴きたかったので、無事会うことができて、本当にほっとした。

明日は、事務所開き。スタッフの皆さんが手際よく準備を進めてくださってありがたいことだ。心から感謝。でも、一体どれだけの方が来てくださるのか、不安でいっぱい。とにかく、無事に済みます様に。

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今は福島なのです

 とても大事な時だとは分かっているけれど、福島にいます。今日は、福島県、福島県教育委員会、福島県学校保健会の主催、そして共催が福島県小学校長会、中学校長会、高等学校長協会、私立中学高等学校協会、県PTA連合会、高等学校PTA連合会等々、後援に県医師会などの、そうそうたる団体の「いのち生きいき研究大会」がひらかれていて、その基調講演をするためにやって来ました。福島県下から1000人を越える教師ゃ保健師さんなどが参加されていました。そこで、「性と生を考える」と題して二時間話をしました。皆さん、一生懸命に聞いてくださいました。

 夜には、教育委員会の方々や県の保健関係の方々との集まりがありました。今、ここ、福島でもいろいろと問題が起こっています。中でも、大野町の病院で進入胎盤の女性が出血死したことで産婦人科の医師が逮捕され、次々と医師が大学病院に呼び戻されて、お産をする病院がなくなってしまって、困っている、ということ。それから、最近では高校生が母親を殺して首を切断して、という事件のこともいろいと聞きました。それから、ここは、10台の人工中絶がワースト2位だったのが、性教育に取り組み始めて、4位になったことも聞きました。今、性教育に食育を加えていろいろと企画、実践をしているということです。食というのは、とても大切なことで、私も大賛成です。

 明日は福島県の県立高校で生徒さんに講演をします。これは、7月の12日に入っていたのですが、いくらなんでも、その時期には、ということで、申し訳ないのですが、今日の講演にくっつけていただいたものです。

 広島では、私がいない中、皆さんが頑張って下さっています。度々電話が入りました。中でも、以前からお願いしていた後援会の会長を、河村病院の河村先生が引き受けて下さると事務所に来られたという電話で、バンザイ!です。お電話で申し訳ないけれど、本当にありがとうございます、と、お礼を申し上げました。それに、私の応援歌を作って下さったと、いさじさんがCDを持って来て下さったとの電話もありました。いさじさんは、これを事務所開きで歌って下さるそうで、これもお電話でお礼を申し上げました。それから、これも推薦をお願いしていた、吉永みちこさんから、OKのメールが入り、これもバンザイ!ですぐに連絡をしました。まだまだ、京都の中西さんから、ある会の広島のメンバーの一人一人に支援の要請をして下さったとのメールも入りました。本当に皆様に感謝です。

 性教育の講演は、もうずっと以前からお約束していたものなので、私か゛選挙に出ることを決めたからといってキャンセルということは出来ません。本当に広島のメンバーには申し訳ないことですが、なんとかご理解を!と頭を下げるしかありません。明日、講演が済むと、まっしぐらに広島に帰ります。といっても、とても遠くて、講演が三時に終わって、広島に帰りつくのは、10時頃になりそうです。

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いのちが生まれるということ

 昨日のお昼時間は帝王切開だった。以前、子宮の手術をしている人のやっとの妊娠、出産で、だから、帝王切開での出産と決まっている人だ。出産予定日はまだだいぶ先だけれど、収縮などの症状があって、早めに手術をということになった。私はクリニックに病棟を持たない。だから、入院、手術が必要な人は、信頼する友人の病院に入院してもらって昼時間に出かけていく。そして、無事に2800グラムを少し超えた元気な男の子が生まれた。ちょっと早めなので、まだしわがあって、お母さんになりたての彼女は「わあ、しわだらけ」なんて、言ったりして。やっぱり赤ちゃんの誕生はいいなあ、と感動する。

 私が性教育の講演をする時には、途中で文部省選定の20分の「妊娠と出産」という映画を上映する。立った20分でも、本当に手際よく、体や妊娠の説明がされ、そして出産が映される。それを上映する前に、必ず子どもたちに話す。

 いのちの誕生というのは、決していやらしいことや恥ずかしいことではないね。すでに先に生を受けている私たちだれもが歓迎してあげるべきこと。私は、産婦人科医になって35年も過ぎるのに、まだ慣れない。無事に赤ちゃんが生まれてぎゃあーと泣いた時には、まだ胸がきゅうっとなって、涙が溢れそうになる。そして、「おめでとう!良く生まれてきたね」とためらうことなく言える。それに、赤ちゃんを産んだ後の女性の素晴らしくきれいな笑顔、産み終えた女性はみんなこんな笑顔をするよ。10何年か前、皆さん達はみんなこうして生まれて来たんだよ。この中には何人か帝王切開といってお母さんのお腹を切るという手段で生まれた人もいるだろう。それはそれで親も大変だったんだけれど。ほとんどの人はこの映画のような生まれ方をした。そして10何年か前、皆さん達の母親は、皆さん達を産んだ後、みんなこんな笑顔をしたんだね。その笑顔も是非見て欲しい。

 こんなことを言って、映画を上映する。子ども達は出産を見て、こぞって感動する。私の所には、沢山の感想文が寄せられる。ある大阪の中学校で講演したときのこと。二年生で、拒食症にかかって入院していた子がいた。病院から学校には通学している。その子の感想文。「講演の後、病院に帰らないで、家に帰った。そして、家でお母さんにお母さん、私を産む時大変だったんだね。産んでくれてありがとうね。もう、これからは自分で自分の体を傷つけるようなばかなまねはせえへんよ、と言ったら、お母さんが涙を浮かべていました。」彼女はいのちをみつめたね、と思った。

 今、性教育がバッシングに遭っていて、出来なくなっている。出産を見せるなんて、という攻撃もあるが、そもそもこの映画は「文部省選定」である。このお墨付きはとても強い。「文部省選定ですよ」というと、学校の管理職の人たちは、ほっとされる。赤ちゃんが生まれること、新しいいのちが誕生することをいやらしく捉える人こそいやらしい。貧しい性意識を持っているに違いない。

 いのちを大切にする教育をと言ったって、「いのちを大切にしましょう」と百回言っても通じない。それよりも、いのちの誕生と、そして、いのちの終わり、「死」を教えること。少し前まで、性教育の仲間は「死」の授業も含めて、いのちを真っ正面から見つめる教育をしていた。それがほとんど出来なくなって、ほんとうにこれからの子どもたちはどんなに育つのだろうと考えたら、暗澹たる思いでいる。

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多くの方に出会っています

 今日は午前中に出来上がって来たリーフレットやはがきをセットして、午後はそれらを持って拶回りをした。少しだけ遠方になるので、今日は自転車だ。自転車は小回りが利くし、何より駐車場探しが不要なのがありがたい。でも、南から北まで、ずいぶんな距離を走り回ったので、さすがにまた足がだるい。私の事務所のスタッフには、廿日市から、ひろしまの中区の事務所まで毎日自転車で通って来る人がいる。そのエネルギーには感嘆するしかないのだが、今日は、私は彼の片道分くらいは漕いだだろうと思う。

 事務所には、様々な方が訪ねて来てくださる。午前中、熱帯森林保護団体の南研子さんと同じ団体のひろしまの人たちが来てくださった。南研子さんは、アマゾンの森林と住民を守る運動を命がけでしている方だ。彼女の本を読んだ時、そのすさまじいまでの生き様にすっかり感嘆した。そして、昨年友人の家で出会った時にはすぐに意気投合して、語り合った。彼女の闘いは、半端ではない。何よりも私がびっくりしたのは、アマゾンでの虫との闘いだった。小さな虫や蚊に体中を襲われる。それは、指の爪の間にまではいりこんで、そこに卵を産み付けられ、それをほじくり出すその痛さを想像しただけでぞっとした。でも、彼女の闘いはそんな物はまだやさしい方だ。アマゾンの熱帯雨林は今、他国の企業により次々と木々が切り倒され、開発されて農場にされている。それは、地球の温暖化を招き、かつ、アマゾンの奥に住む住民達の生活を脅かしている。その現地の住民達の生活を守る闘いは、命がけだ。多くの同じ活動をしている人々が殺されている。彼女だって、いつ命をうばわれるか分からない、そんな状況の中で、めげることなく活動を続けている。その情熱に心から感動した私は、すぐに会費を払ってこの保護団体の会員になった。

 今度、5月25日から31日まで、広島のアステールプラザで「アマゾン・インディオ文化展」が開かれる。その準備のための来広で、そして広島のメンバーと共に、私の事務所まで訪ねて来てくださったのだ。相変わらず元気な南さんの姿にすっかり元気づけられた。広島のメンバーは、沢山のリーフレットなどをもって帰ってくださって、本当にありがたい。ひたすら感謝。

 さらに、夜になって、昨日に続いて「やんじさん」が来てくださって、チラシを折ったり、コピーしたり、すっかりスタッフと同様の仕事をして下さった。そしたら、「店長の一日」のみちるさんが差し入れのコーヒーを持って来てくださって、ブログ仲間はいいねえ、と、河口さんと話していたら、「たまーさん」まで現れて、ますます感激。たまーさんは、リーフレットを配って下さると、1000枚も持って帰って下さった。こんな出逢いは、本当に私がブログを始めたからこそで、心底良かった!!と思っている。もっとも、時間がなくて、ちょっとさぼると本当に正直なもので、広島ブログの順位がすぐに下がるのでちょっときつい。でも、それはそれで、出来る範囲でやるのが長続きのこつと思っているので、なるたけ気にしないようにしようと思っている。

 実は、印刷した選挙用のはがきやリーフレットにはちょっとしたミスがあって修正しなければならない。それに大わらわなのだが、出来上がった端から、次々と出て行く。本当にありがたいことだ。沢山の方達に支えられて、私の活動は進んで行っている。ひたすら皆さんに感謝しながら、明日も頑張ることができそうだ。

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今日は福山でした。

 今日は朝早くから新幹線に乗って福山へ。「ばら祭」で沢山の人が福山に集まる日。昨日やっとリーフレットやはがきが出来上がって、これで材料(本当は武器と言いたいのだけれど)ができた。でも、昨日出来上がったのは、あっという間に捌けてしまって、残り少なくなってしまった。それやビールの空き箱で作った足台やスピーカーを積んでスタッフの皆さんは車で福山へ。私は新幹線で、福山駅で合流。まず私の個人的な知り合いのお家に挨拶へ行き、そしてばら祭の会場へ。本当に沢山の人々。そこでも、スタッフの知り合いで、私を支持して下さる方々にご挨拶。その後、いよいよ街頭宣伝をした。三カ所でしたのだが、皆さんの反応がいいので、びっくり。スタッフが配るリーフレットは次々に捌けるし、私のしゃべりも結構人が聞いてくださって驚いた。きっと、立候補を表明した時の報道で知ってくださっているのだろう。また、私の本を読みました、と言って下さる方や、わざわざ私のしゃべっている所に握手をしに来てくださる方もあって感激だ。

 最後は駅前でぎりぎりまでしゃべったりリーフレットを配ったりして、新幹線で広島へ。そして、駅近くのホテルで週刊誌の対談。東京から二人の女性が来て下さった。ありがたいことだ。

 まだまだこれからだけど、街頭演説も段々うまくなるでしょう。それに、選挙用のはがきやリーフレットを持って挨拶回りも。もう、フル回転で、頑張りますよ!!

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二人ポスターはダメでした。

 なんと、今日ブログに書いたばかりなのに。がっかりです。二人ポスターはダメでした。その後進展があって、本当に素敵な、日本中の人が知っていて、いっぱいファンがある方が、O.K.をして下さってみんなで大喜びをしたのですが・・・。すぐに準備に入って、スタッフが構成を描いて、選管に持っていったら、ダメと言われたのです。これは、政党だけに許されていることでした。私のような無所属はこのようなポスターを作ってはならないのです。結局政党政治で、政党外の者が選挙に臨むのはとても困難なことだということです。

 ということで、本当にお騒がせしました。やんじ様、コメント、ありがとうございました。結局こういうことになったので。でも、めげずに頑張ります!!

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ポスター

 街を歩いていると、いろいろな場所にポスターが貼ってある。これからの選挙の候補者と見られる人と、その同じ政党の地域の議員や党首などと一緒に写っているいわゆる「二人ポスター」や「三人ポスター」だ。私がこんな立場になったから、ことさら目に付くのかもしれない。ポスターについては公職選挙法によるいろいろな規制がある。選挙の公示の後は選挙用の掲示板にのみポスターを貼ることが出来るが、それ以外は、同じようなポスターは、室の中なら貼ることができる。外から見えるように貼ってはならない。

 私は、これまで政党に属する人のみあのような二人ポスターは許されるのだと思っていた。私は無所属だから、だめよね、と。ところが、私でもあのようなポスターを作って貼ってもいいという情報を教えてくれた人がいた。ええっ?私は政党の人間ではないけど、それでもいいの?いいのだそうだ。どこかで時局講演会をするというお知らせのポスターで、それも必ず同じ大きさで二人か三人が載っていないといけない。公示後は、このポスターは撤去しなければならない。

 それはそれは、で即、準備をしようとしたのだが、では、誰と写るの?で、止まってしまった。二人が並んだポスターになるのだから、困ってしまった。私が知っている人で、政治家はみんな政党の人だったり、支持者がいろいろな人たちだから、それは困るという人たちばかりだし。評論家の人たちはこんな色が付くことはしたくないだろうし。夫は絶対にいやだというし、しようがない、娘とでも写ろうか、なんて話している。本当に困ってしまって、止まったままだ。どなたか、私と一緒に二人のポスターになってもいいよ、と言ってくださる方はありませんか?

 考えてみれば、本当におかしな法律だ。一人だとだめだが、二人だといいなんて。結局は政党政治のために、政党のために、こんな法律は作られているのだと思う。だって、いろいろな人の二人ポスターを見てみると、時局講演会と言ったって、JR南口だとか、○○駅前だとか、全然ちゃんとした会場を借りての講演会ではないのが、小さく書いてあるだけだ。結局は政党と候補者の名前を宣伝するような、そんなポスターになっているのだから。でも、それに乗っかって私だって利用させてもらおうと思う。そのために、どなたか、私と一緒に写真に写ってよお、と探さなければ。

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コウトウラ

 昨晩は、ほんと、寝られないほどの足のだるさで、足を左右交互に上にしたり下にしたりと重ねたり、右を向いたり、左を向いたり、まあ、しんどくてごそごそしていた。ら、夫が「コウトウラ、する?」と言った。テレビのコマーシャルを見て、どさっと140枚も入ったサロンパスの箱を買って来ていた。そうだった!で、早速足の裏に3枚、甲に3枚、アキレス腱に1枚、ふくらはぎに1枚、計8枚を両足だから16枚、べたべたと貼った。そしたら、しばらくして、じんじんと、その内すーすーとし始めて、ああ気持いい、と思ったら、眠っていた。目が覚めたら、すっかりだるさは取れていたが、まだすーすーと効いているので、貼ったままで靴下をそっとはいた。このごろ私はズボンばかりだから、見えはしない。

 今日の午後は、手術だった。前から決めてあった筋腫の核出術。私のクリニックは入院の設備がないので、手術が必要な人はどこか希望する所に紹介するか、私の友人の所に入院してもらい、昼時間に出かけて行ってそこのドクターと共に手術をする。筋腫の核出術か、帝王切開が多い。来週は核出術をした後の妊娠で、帝王切開の出産を予定している。

 友人の医院に着いて、術着に着替えて靴下もそっと脱いで手術室に行った。術着はスカートだ。皆さんに「足はどうしたのですか」と捻挫でもしたのかとびっくりされて、「だるいから。コウトウラ。良く効くよ。」と言ったら、皆さんにげらげらと笑われてしまった。ただ、手術がすんだら、汗のせいだと思う。ほとんどが剥がれてしまったので、そこで全部取ったのだが、良く効いたと思う。強力な助っ人が現れたような気分だ。病院の湿布とどう違うかというと、湿布よりもしっかりくっついてくれて、べとべとしない。効果も強力なような気がする。

 今日は、手術の後もまた挨拶回りなどをしたのだが、足は大丈夫。サロンパスの効果か、それともだいぶ足がきたえられたのかも知れない。

 

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政治活動とは足がだるいことと見つけたり

 昨日は日曜検査の後、事務所に行き、夕方から安佐北区にご挨拶に行った。今日は診療は中原先生の日で、私は朝からずっと事務所に。色々と仕事をした後、午後から近場の挨拶回り。歩いて主に同業のドクター達の診療所を回った。お仕事のじゃまにならない様に、短時間で切り上げるが、皆さんとても好意的で、励ましてくださってありがたい。感謝の思いでいっぱいだ。

 そして、事務所に帰ったが、とにかく足がだるい。ソファに座るとほっとするが、さらに耐えられなくて、ソファに正座する。でも、そうぼやぼやしていることも出来ないのて゜、「よっこらせ」と立ち上がる。これからの活動の計画を話していて、はっと気づいたら、もう7時だ。うわっと声がでた。今日は7時から私の裁判の支援する会の人たちとの会議が入っている。あわてて遅れる旨を電話して、タクシーで駆けつける。ここでも、足がだるくてだるくて、丸椅子の上に正座をして会議をした。

 まだまだこれからというのに、こんなに足がだるくてどうしよう、と思う。以前、講演でホテルに泊まっている時にお部屋でマッサージをしてもらっていたら、「足がだるいでしょう」と言われた。こんな細い足でこの体を支えようとしたら、だるいはず、と。筋肉がなさ過ぎるのだと。私はどれだけ運動をしても、足は細いまま。決して筋肉がつかないし、不思議なほど足には脂肪も付かない。そうか、体は太っているのに、足が細いままだと、足に無理がくる、そういうことなのねと納得した。日頃診療でも、立ったり座ったりの繰り返しで、結構運動をしている様ではあるが、歩いて挨拶回りというのは、もっとうんと足を使うのだろう。まだまだ、朝夕、通勤の人たちに立ってご挨拶というのもしなければならないというし、明日は西のほうに、その次はうんと北に、土日はうんと東に、と走り回らなければならない。県一円というのは、とてつもなく広い。この細い足にとにかく頑張ってもらわなければ。

 事務所に来てくれている友人が「選挙だと、やせるといったでしょ。選挙は最高のダイエットですよ。どうぞ、楽しみにしていて下さい。」と言った。そうね、日頃の運動不足がたたってるのだから、とにかく歩きましょう。歩けば歩くほど、効果があるのだそうだから。選挙にも、私の体の健康にも。

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きょうは日曜検査の当番です。

 今日はHIVの日曜検査の当番で午後から県病院に来ている。午前中は事務所にいて、ばたばたしたが、ここはじっと座っていて、10分置きに検査結果をお伝えするだけなので、とてものんびりしている。こんな時間は私にはとてもありがたい。現に、こうして昼まから堂々と机に座ってこんなブログを書くことも出来るのだから。この前には、ゆっくりと受信トレイの後回ししていたMLなどを読んだ。jaidsというMLは、広島大学の高田先生が中心になって作っている会員が1000人近くもいるエイズ関連のものだ。そこに、懐かしい記事が出ていた。エイズのキルトの話、優れた番組を沢山作ったNHKのディレクターの池田恵理子さんの話など。

 エイズのボランティアの「広島エイズダイアル」を結成したのが1990年。エイズパニックからまだほどなく、社会には血液製剤により感染した人の大問題が明らかになり、また、他の様々なルートによって感染した人たちへの偏見も生々しい時だった。広島でもエイズで亡くなった方達を忍ぶキルト展を行い、そのスタッフが中心となってボランティアグループを作った。作りはしたが、だれが代表になるかでずいぶんと話し合った。メンバーはいろいろといても、皆さん勤務者で、ボランティア活動はするけれど表に名前が出るのはどうも、という人が多くて、結局開業して間なしの私が一番しがらみがなくて良かろうということになって引き受けた物だ。当時は会員もどんどんと増え、活動も活発だった。事務所を作り、事務局長が24時間専従し、研修会、ケアサポート、電話相談などとても忙しかった。24時間の電話相談をした時は、会場はまるで野戦病院のようだ、と差し入れに来た人に言われた。

 そして、今17年が経ち、エイズをめぐる状況もずいぶんと変わった。何より変わったのは、HIVの治療薬の開発だ。HIVに感染してもそれが早くに分かり、ちゃんと医療を受ければ限りなく生きることができる。HIVに感染していても子どもを持つことも出来るようになった。これは、エイズ、即、死と恐れられていた時からすればまさに隔世の感ありと思う。自分の命をかけてさまざまな問題提起をしてくれた赤瀬さんや石田さんや草伏さんなども、もう少し何とか生き抜いて下さっていれば、今も生きることが出来ていたのではないか、とさえ思う。このように治療が出来るようになったということがまだ知られていなくて、ただ怖い病気、そして自分も感染したのではないかという恐怖をもちながら、検査を受けることをためらう方達もいる。検査を早くに受けて、感染が分かりさえすれば、対応法はあるから、ということの情宣がもっとされなければ。

 今、私たちは県の依託を受けて、日曜検査を行っている。迅速検査だから、結果は15分で出る。昔のように1~2週間後に結果を聞きに来てくださいというのでは、待つ間がまるで拷問のようにつらいと言われていた。今は、ちょっと待っていていただければ、すぐに結果を聞いて帰ることが出来るので、気持は楽だ。迅速検査に変えてから、検査を受ける人が飛躍的に増えた。今は10分置きにぎっしりと入っている。匿名で無料で受けられる。人と会うこともない様にプライパシーも守られる。だいぶ、この日曜検査も知られて来たのだと思う。

 前に比べて、ケアサポートは少なくなった。みなさん、元気に生活出来るようになったからだ。電話相談は水、土、日にしている。検査と電話相談と、なかなか人を回すのが大変。でも、悩む人たちがいる限り、私たちの存在の意味があると思う。まだこの病気と、病気に罹った人に対する偏見が続く限り、細々とでも続けることが大切だと思っている。

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嫌がらせ(?)の電話

 昨日、名古屋から飛んで帰って事務所にいたら、一人の女性が来られた。河口さんが「ブログ仲間です」という。そして、「お久しぶりです。」と言われて、じっと顔をみたら、思い出した。もう20年も前に一緒に土谷病院で働いていた看護師のみちるさんだ。「ああっ、以前ブログにコメントをして下さったのはあなた?」アフリカ、ザンビアのエイズの基金を頑張っていると書いてあったし、でも、どなたなのか、考えても分からなくって。彼女だったなんて。彼女はザンビアのコーヒーを扱っている。そのコーヒーとコーヒーメーカーを差し入れして下さった。うれしい。本当にうれしかった。看護師をやめているのは、少し残念だけど。昔、明るくって、さんざんみんなを笑わせていた彼女のことをしっかり思い出した。コーヒーもおいしかったよ、みちるさん。ブログ仲間ってこういうことなんだ。今度オフ会がある。絶対に行って皆さんにお会いしたいな、と思う。きっと6月10日というととても忙しくなっていると思うけど、何とか時間を作って行きたい。

 今日は、午後裁判だった。私の名誉毀損の訴えも、いよいよ大詰めとなっている。新しく変わった裁判官も皆さんきさくで、リラックスしてお話し出来た。そのうち、皆様にも結果をお伝え出来るでしょう。

 そして、事務所に帰ったら、電話がかかって来たという。私の性教育の講演が予定されている地域の住民からだと。立候補を表明してから、こんな講演をするのは、選挙違反ではないか、と。電話番号を聞いてあったので、私から改めて電話をした。

 立候補の表明をしたら、もう候補者ですよね。いえ、まだ候補者ではありません。正式に立候補している訳ではありませんし。予備軍ですかね。それに、私は、講演の中で、立候補の予定であるなんて言うわけがありません。以前からお約束しているとおり、性教育の講演をするだけです。それは、選挙違反でもなんでもありませんよ。どうぞ、お宅様も聞きに来て下さいませんか。そんなことをお話していると、「ここは、○○さんの地盤です。投票する人が三万人いて、そのうち二万一千票は○○さんの票が出ます。今回、○○さんは、△△さんを応援すると言われています。そんな所にのこのこと出て来ない方がいいんじゃないですか。あなたが適地に乗り込んできたら、何か足下をすくってやろうとしている敵に口実を与えることになりますよ。」「ご忠告ありがとうこざいます。でも、私は自分の恥をさらすような講演はしませんから。以前からのお約束ですので、予定通り行ってお話させて戴きます。」

 要約するとそんな風な電話だったのだけれど、電話を切った後で考えた。一見、私の身を心配している風の電話だけれど、単純に好意とは思えない内容だった。やはり講演をすることを好ましく思わない人なのだろうか。でも、ご自分の電話番号を名のっていらっしゃるのだから、かならずしもそうひどく悪質とは思えないけど。まあ、なんか変な電話だったなあ。まだまだこれからもいろいろと続くのだろうね、と一段と緊張してしまった。

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今、名古屋のホテルです。

 さきほど名古屋のホテルについた。診療をすませて、事務所であたふたと用事をもらって、20時33分の新幹線に乗って来た。ふうっ!さすがに疲れた。足がだるくて、今、ホテルの椅子に正座してこれを書いている。明日は、名古屋の女子大で講演をする。

 選挙に出遅れているのに、一体、何をしているのかと、自問するけれど、講演はもう一年も前から入っていて、今更キャンセルなんて出来ない。一年前から立候補するなんて考えていたらこんなに講演は入れていないのだろうが。さすがに7月の選挙前は日を移動してもらった。だから、6月までがいっぱいになってしまった。まだまだ、福島、徳島、長野、大阪など全国に行かなければならない。事務所に来て戴いている方達に申し訳なくって。でも、新幹線の中でもずっと仕事をしていた。名簿のセレクト。公約の点検。ひっきりなしの電話でデッキと座席を行ったり来たりしながら。

 診療もそうだ。まだ週二回の診療をしている。患者さん、皆さん私の立候補宣言を知っていて、診療はどうなるのかと口々に言われる。先生には頑張ってほしていけど、でも、私たちのことを考えたら、落ちてもらったほうがいいと、友だちと話してたんですよ。なんて言われると、申し訳なくて、こちらも心中複雑になる。今までやって来たことを転換するというのは、やはりしんどいことだ。宣言したからには、もう進むだけ。やることがいっぱいあって気はあせりながら、でも、なかなかすべてを断ち切れなくて、ぐずぐずしている今日なのです。

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写真・ホームページ

 昨日はパソコンのスペシャリストが事務所へ来て、ホームページを作る作業をしてくださった。私はブログをしているだけで、選挙モードのホームページはまだない。でも、彼が加わってくださって百人力だ。

 午後は選挙ポスター用の写真撮影。言葉のプロのコピーライターとリーフレットなどのデザイナーとスタイリストの女性が付き添ってくださる。お化粧をしてもらって、色々と洋服を換えて写真を撮るが、初めての経験でなかなか難しい。自然に笑うというのがこんなに難しいものなのか。どうしても顔の筋肉がこわばる。カメラマンもベテランで、的確に指示してくださるが、もう、とてもしんどかった。ふと思う。「これまでも立候補する人たちはみんなこんな風に写真を撮るのでしょうね。良くやるね。」と。まあ、数多く撮ったので、きっと中には使える物があるでしょう。

 手作りの写真入りの名刺も作ってもらったし、事務所の看板もできた。昨日はやっとファックス兼コピー機が入って、今日は封筒が出来て、明日はADSLが付く。立候補宣言から一週間。他の陣営から大きく遅れを取っての出発だけれど、徐々に体制も出来て来て、何とかなるでしょう。そうそう。夫も事務所に来て、主に書き物をし始めた。マスコミからの調査票や、いろいろな団体からのアンケート、選挙手続きの書類など、膨大な書き物がある。選挙というと、これらの仕事がとてもストレスになる。それを専用にやってもらえるのは大助かりだ。

 不安も数々あるけれど、それにこだわっていては進まない。いままで近場の挨拶回りをして来たが、今日から遠方にも出かけで行く。少しずつ、焦らず、じっくり力を発揮しましょう。

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秘密がなくなって晴れ晴れしました

 別府から広島に帰って来た。出発してすぐに高速に乗ろうと思ったら、大分自動車道は霧の為に全面通行止め。一般の道を通って博多に行くにはあまりにしんどくて、博多回りは中止にして直接北九州へ。だから、兄の机は借りられなかった。机くらい、リースすればいいだろうと、夫が言う。その通り、けちけちするのはやめましょう。

 夫は運転しないので、私一人で雨の中をひたすら運転。行きも帰りも車の中でずっと夫と話をする。これまで内緒で事を進めていたので相談したいことはいっぱいあった。特に、政党の推薦をどうするかは、彼の意見を聞いてみたかった。すべて一人で考え、決めなければならないのは、なかなかしんどかった。

 こんなことが以前も一度あった。もう三十年も前、夫が胃ガンになった。それもかなりの進行癌で。当時の医療は、絶対に本人には知らせてはならないということだった。私は彼に告げたかった。彼の人生なのだから、彼自身がこれからを選択すべきだと思った。でも、それはいけないと固く禁じられて、だから、徹底して隠さなければならなかった。彼のことを一人で決めなければならないのは、これは、本当にしんどかった。進行癌だから、あまり持たないといわれたのが、結果、ここまで生きることができた。彼が知ったのは、手術から15年経ってからだ。生きることができたので、その結果からみると、彼は知らなくて良かったと思う。術後なんども腸閉塞で入院したが、もし彼が知っていたら、とても怖かっただろう。

 それとは全然ことが違うけれど、今、秘密がなくなって本当にすっきりした。彼の母も「では、頑張りなさい。でも、くれぐれも体に気をつけて。あんまり無理しないように。」と言ってくれた。夫は、もう次々と友人達に電話をしてくれている。

 明日は、ポスターの写真を撮る。広島に帰り着いて、美容院に行こうと雨の中、今度は自転車で街へ。事務所に立ち寄ると、二人の男性がせっせと名簿の整理をしてくれていた。連休中は事務所は休みにしていたのだが「かってにやってるんだから、気にしないで下さい」と。美容院がすんでまた事務所に行くと二人がやっと終えて帰ろうとしていた所だった。今日の昼は、たまーさんも来て名簿の整理を手伝って下さったとのこと。本当にありがたいことだ。さあ、連休もすんで、秘密もなくなって、明日からは選挙モードだ。

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もう大丈夫。

 まだ別府にいる。持って来た仕事はなかなかはかどらず、その合間に、雨の中、庭のサクランボを取ったり草を抜いたり花木に肥料を上げたり、久々に土と接している。この間も次々と電話がかかって来る。

 ご心配をおかけした母も、もうすっかり大丈夫。母からしてみろば、いろいろと私に対しての不満や不安もあるだろうと思う。でも、本当に賢い母は、それらをぐっと飲み込んで下さった。今日は、うどんやさんで一緒に夕飯を食べた。母は鍋焼きうどん、私たちは地獄うどん、注文を間違えて3倍の辛さの真っ赤っかのうどんが来て、まあ、辛くて、口がしびれてしまった。その後、我が家に来て、今、お風呂に入ってもらっている。

 そして、母は、これを使いなさいと夫名義の定額郵便貯金証書と印鑑を下さった。母は小さなお店をしている。ささやかな収入の中から子どもたちに貯金をして下さったのだろう。それを今使うようにと。それに、7月が近づいたら、お米を精米して送って下さると。私は、もう涙涙だ。こんなじゃじゃ馬の嫁さんで、本当に申し訳ございません。と、心の中で手を合わせて、ひたすら感謝している。母にこんな思いまでさせているのだから、頑張らなくっちゃ。

 明日は早めに出て、今日帰った福岡の兄の所に寄って長机を借りて広島に帰る。机をいろいろな所で借りて寄せ集めているが、とても足りない。集めるだけ集めて、最後は足りない分だけリースをするつもりでいる。

 実は、昨日からずっとお腹が痛かった。どうしたのだろう、と考えていたが、私は胃下垂で、だから、お腹が痛くてもこれは胃だ、と思い当たった。でも、母と話をしたとたん、すっと痛みが消えた。やれやれストレスの胃痛かな。まだ始まってもいないのに、今から胃が痛くなるようでは、先が思いやられるわ。と言ったら、夫が「じゃ、辞める?」と言った。ご冗談を。そんなことをしたら、私は生きていけない。この世から姿を消さなければならなくなるわ。それくらいの覚悟をしているのですからね、と言った。

 さあ、これから母を送って行って、残っているレセプトをし上げなければ。

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義母が怒った

 今、別府の我が家にいる。本来なら、連休の今、事務所は開けててんてこ舞いしなければならないのだが、のっぴきならない用で、事務所の仕事は本格的には連休明けからの活動とした。

 昨日は遅くまで事務所でごそごそして、夜から車で出発。途中福岡の私の兄の所に来て、報告がてら一泊。兄が今から行くからと急に連絡したにもかかわらず、すぐに福岡の奥のひなびた温泉宿を取ってくれていた。福岡は博多どんたくでいっぱいの人で、宿の手配は大変だった様だが、さすがにこんな時にも空いているのも頷ける古い宿だった。遅くに宿に到着。由緒ある温泉だそうで、お風呂にどうぞ、と言われて温泉に入ろうとしたら、「一緒ですから。」と言われて「?」。「お風呂は一つです。ご一緒にどうぞ。」なのだそうだ。うーん、夫と一緒にお風呂だなんて、長い間そんなことないのに。もう、12時近いし、順番にというわけにもいかず、、、。携帯もきれぎれ、パソコンはつながらず。静かな山中で、久々に早くに寝た。朝ご飯はなんと言うこともないメニューでも素敵においしかった。黄味がオレンジ色の卵、山菜のみそ汁。久々にほっとしたひとときだったのだけれど。

 でも、今日は憂鬱な任務が。河野の実家の母がひどく怒っているという。実は、7月の15日に父の7回忌の法要をする予定だった。でも、選挙は22日。どうにもならないので、河野が母に頼み、お寺にも事情を話し、半ば強引に7月1日に変えてもらったのだ。河野は長男で一人息子。そろそろ里に帰って家を継ぐべき年頃になっている。そのために、私たちが帰る家を実家から少し離れた所に数年前に建てている。それなのに、その嫁さんが、とんでもないことを、と。まあそんなことで、お母さんや本家や義理の姉夫婦などにお話しなければならないのだ。

 大体、今回のことは河野の身内の誰にも相談していない。それどころか、夫に話したのも、記者会見の二日前だった。それは驚いて、そして、熱を出して寝込んでしまった。息子と娘は、二人とも、友だちのメールで知ったという。「なんか、友だちが立候補とかいってメールしてきたんだけれど、どういうこと?」と。説明すると、二人ともそれぞれびっくりして、「言ってくれてもいいじゃないの。友だちのメールで知るなんて」と。それはそうよね。ごめんね。だって、子どもたちはともかく、特に夫に話したら、絶対反対されるということが分かっているので、のっぴきならないところまで言わないと、決心していたのだから。夫は、もう自分一人で実家に帰る。別居だ。なんて怒っていたが、なんか決心したみたい。もう、宣言してしまったのなら、仕方がない。こうなったら頑張らないと。落ちるにしても、あまりぶざま票ではいけないから。などと、そうなったので、ほっとした。

 兄は、私の庭に植える椿を用意してくれていた。私の父が死んだ時、父の庭に植えてあった椿を掘って姉の息子と、福岡の兄と大分市の兄、そして家の庭と、配って回った。父の大切にしていた椿の形見分けだ。そして、どこの椿もすくすくと大きくなって、立派に咲いているのに、家の椿だけ枯れてしまったのだ。福岡の兄は、父の形見の椿を挿し木して、次々と増やしている。その一本を家に分けてくれるという。それと、他の数本の苗も一緒に用意してくれていた。で、私は兄に一緒に行って植えて、と頼んで、別府まで来てもらった。そして、実家にも一緒に行ってもらったら、お母さんに怒られるのも、少しは和らぐのではないか、という魂胆で。

 で、兄夫婦もともに実家へ。母は、やっぱり怒っている。が、つんけんしながらも、ご飯を用意してくれている。タケノコや蕗の煮物や、漬け物など、それはおいしい手作りがいっぱい。でも、夫が選挙の話をするとぷいっとされる。選挙なんて、きらいと。母のお兄さんの一人は県議をしていた。その選挙はいつも大変だったと。それに、いままでしていた医者はどうするのか、と。いつも私たちが帰った時は、家に来てもらってお風呂に入ってもらう。でも、今日は誘っても「行かない。」と、きっぱりと断られてしまった。

 まだ明日がある。明日、もう一度。だって、私は夫が一生懸命に母を説得しているのを聞いてしまった。「もう20年も前からね、いつも美代子には選挙に出ろとか、選挙の応援をして欲しいとか、声がかかっていたのよ。今、突然に起こったことではないのよ。もう、走り始めたのだから、お母さんも応援してよね。」と。私は、夫が自分自身に言い聞かせているのだ、と思った。これなら大丈夫。母の説得は夫に任せようと思う。私は月初めで、レセプトや、連載の原稿書きや、事務所開きの原稿や、体制のシェーマづくりや、どっさりと仕事を抱えてきている。今日は徹夜かな?

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参議院選挙出馬について(3)

記者会見で、声明を読み上げた後、記者さんの質問がいろいろとある。そこでやはり聞かれたのは、みこし連のこと、そして、秋葉さんのことだった。立候補を決めたのは、市長選で大勝したことと関係がありますか。みこし連で選挙をされますか。秋葉さんの支援はあるのですか。「秋葉さんの選挙で勝つことが出来て、ほっとして、そして自分のことを考えました。(負けてたら、広島には住むことができないと考えていました。)」「みこし連は、秋葉さんの選挙を担う政治団体です。私は秋葉さんの初めての市長選挙から代表でしたが、こんどは私自身の選挙をとは、言えません。私は、この立候補に当たってみこし連の代表を辞任するむね、スタッフの人たちにMLに参加でお伝えしました。正式には総会で認めて戴かなければならないのですが、今、公職選挙法で、総会を開くことはできませんので、正式な決定ではありませんが。」「秋葉さんには、奥様を通して、立候補すること、本日記者会見をすることをお伝えしました。もう、伝わっているかも知れません。」以前から政党の推薦で立候補をという接触はありませんでしたか。「ありました。でも、とにかく秋葉さんの選挙がすむまで待って欲しい、今は考えることが出来ないからと待っていただきました。」いつ、立候補することを決めましたか。「4月20日です。そして、4月23日に政治団体の届け出をしました。」秋葉さんの支持票が期待できますか。「いいえ。ご存じのように、秋葉さんの支持票は、自民党の支持者、公明党、民主党、共産党に至るまで、さまざまな政党を支持する方から戴いています。今回は、自民、民主、共産、いずれも候補が立たれますので、そちらに行くと思います。全く別な所での票を期待しなければなりません。私は、これまで25年間、県内のすべての旧市町村で講演をして来ました。生徒さんであったり、教師、保護者、また、お寺であろうと、教会であろうと、老人会であろうと、教育委員会でも組合でも。お声がかかれば、どんな所でもお話をして来ました。手がかりはそこだけです。その地べたをはう様にして続けて来た私の活動の中で作って来た人脈での票を期待しています。」そんな会見でした。声明の最後です。

教育の現場では、「平和」や「いのち」の教育も出来なくなりました。私がライフワークとして取り組んで来た性教育は、人権教育や平和教育と深く繋がっています。それが出来なくなった今、当然のごとく、いじめや自殺が増え続けるでしょう。また、若年者の人工中絶、HIVなどの性感染症、レイプなどの性犯罪、ドメスティックバイオレンス、それに熟年離婚も増加の一途をたどるでしょう。教育基本法が変えられ、教育再生会議の下に行われようとしている変革は、その傾向をますます強めて行くでしょう。私の知る教員の多くは疲れ果てています。それらに少しでも歯止めをかけたいと思います。

産婦人科医療の現場も、大変なことになっています。科学の進歩とともに生殖医療はどんどんと進んでいるのに、法の整備がなされていないために、子どもたちの戸籍が取れないという事実が沢山報告されています。私は、それらの法の整備も「生まれてくる(来た)いのちに取って一番幸せな方向で」という軸を一本通せば、解決して行く問題であると考えています。また、せっかく「いのち」を身ごもりながら、出産できる病院がどんどん減る中で、産みたくとも産めないいわゆる「お産難民」が50万人にもなるだろうと言われています。少子高齢化を問題にしながら、産婦人科医療について、何ら手を打たなかった政府の無策ぶりが、露呈したに過ぎません。

私は、一人ひとりの「いのち」と「憲法」を守る政治を心がけたいのです。

自民、民主の「指定席」と言われる二議席に割って入るのは、とても大変だということを自覚した上で、それでも一人でも多くの女性議員が増えることをも目指して、立候補を決意いたしました。

 何とぞご理解、ご支援のほど、よろしくお願いします。                                                      

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参議院選挙出馬について(2)

 昨日は、ばたばたして、その上1日なので、いつものお寺のお一日参りに夜はお寺へ。お寺でも、皆さんがテレビを見ていて、「応援しますよ。」と口々に言われて、びっくりすると同時にとてもうれしかった。お寺の先生も、めったにテレビなど見ないのに、たまたまつけたら、私が映っていたと。実は、私が記者会見に着て行ったのは、先生のお古というか、先生がご自分の物で時々バザーをされる。その売り上げで、地震や津波の被害に遭った所の義援金にされたりするのだが、そのバザーで買った、先生のブレザーだ。先生のパワーでいっぱいブレザーを着て、張り切るつもりだったのだが、もう緊張して、つまりつまり用意して行った声明を読むのが精一杯で、何とも、恰好の悪い発表になってしまった。でも、先生も目一杯励ましてくださるので、またまた勇気が出て来る。

 今、事務所を整えたり、ご挨拶に回ったり、リーフレットの用意をしたり、フル回転をしている。多くの方がすでにボランティアで来てくださって助けてくださるのも、ありがたいことだ。水曜日と土曜日は、一日中診療。その他の日は、信頼する後輩の中原恭子先生が真野産婦人科の院長を辞められたので、来ていただいている。もう少し、選挙で精一杯になったら、終わるまでしばらくは中原先生に全面的に診療していただくようになるだろう。

どうぞ、皆様も事務所を覗いてくださればうれしいです。場所は、紙屋町の県民文化センターの向かい、一回に信用金庫がある大野ビルの二階です。ここの五階に私のクリニックがあります。今、二階と五階を行ったり来たりしています。

立候補の声明文の続きを掲載させて戴きます。小出しにするのが何かいやらしいので、この後も、すぐに連続してブログを書くことにします。

 そして、あろうことか、私たちが生き生きと学ぶことができた教育の、そして被爆者の悲願の後ろ盾となった日本国憲法がいまにも変えられようという事態に追い込まれています。とりわけ、第9条が変えられようとしています。

 この7月に行われる参議院選挙は、広島県は二議席です。ここは広島です。せめて一つは、憲法を守ろう、護憲の立場の議員でいて欲しいと願いました。でも、残念ながら、今、立候補を表明している方達のほとんどは、なんにも憲法について語ってくださいません。自分の党が改憲の立場にいる時に、自分だけ護憲は言えないのでしょうか。高齢化した被爆者の意志を国会に持って行ってくださる方はどなたなのでしょうか。

 そう考えた時に、私は、自分自身が立候補することを考えました。

 私は、産婦人科医を35年務めて来ました。この間、「いのち」を見つめて来ました。生まれるいのち、そして、亡くなるいのち。さらに、講演や著作やメディアを通して、「いのちの教育」にも全力で取り組んで来ました。

私は、一人ひとりが持って生まれて来た「いのち」を全うできるように、それが政治であると考えています。

狭い診察室に患者さんはお一人おひとり、社会を背負って来られます。私は診察室から、患者さんを通して社会を見ます。被爆者、病気の方、障がい者、子ども、高齢者、教育、いじめ、自死、医療、福祉、人権。診察室からそれらに接し、そしてそれらのすべてが「いのち」とそして「政治」と繋がっていると確信するに至りました。

今、世の中は、逆に逆に進んでいます。「障害者自立支援法」による利用者の一割負担により、最も弱い立場にある方たちをさらに苦しめています。なぜこんな残酷なことが出来るのでしょうか。競争至上主義を導入することで、働いているのに生活が苦しい、いわゆるワーキングプアーが問題となるほど格差社会となりました。憲法25条で保証されているはずの生存権すら脅かされている人々がいます。若者や女性の常勤の仕事も少なくなり、学校を卒業しても希望する就職ができない、夢を持つことも難しくなりました。(つづく)

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参議院選挙出馬について(1)

昨日、記者会見をして、7月22日に行われる参議院議員選挙の出馬を表明しました。

いろいろと考えていたことをこのブログには、一切書くこともしないで、ごめんなさい。ココまでたどり着くのは、本当に大変で。何回もつぶれそうになりながら、やっとの思いで発表したものです。

 昨日発表した出馬に当たっての声明を皆様にも読んで戴きたくて、ここに転載します。少々長いので、三回に分けて連載させて戴きます。

参議院議員選挙立候補に当たって

 私は、194742日、広島生まれです。原爆の廃墟の中で育ちました。遊び場はがれきだらけでした。観音小学校の裏庭には、壊れたままの講堂があり、鉄骨が曲がったまま放置されていました。その鉄骨は、登ったりバランスを取って渡ったり恰好の遊び場でした。家の庭にみんなで落とし穴を掘ると骨が出てきました。骨じゃ、骨じゃと言いながら走って逃げました。

 私たちが受けた教育は、戦後の希望に満ちたものでした。日本国憲法は、戦争放棄、二度と戦争はしないと明記していました。男女も平等、基本的人権、本当に生き生きと学ぶことが出来ました。

 父は、戦前から広島二中の教員をしていました。生徒達は学徒動員で毎日工場や建物疎開にかり出されていました。あの日、父は受け持ちの生徒を今の平和公園の国際会議場のある川岸にすわらせ、自分は伝令を持って他の学年が動員されている観音の三菱の工場に自転車で向かっていました。ですから、父は原爆が落とされた時全く偶然に助かりました。爆心地の受け持ちの生徒たちは、姿さえ分からないほどに全滅してしまったそうです。その一人の真っ黒に焼けこげたお弁当が原爆資料館に保存されています。父は、教え子を失って、180度価値観が変わったと言いました。「教員にとって受け持ちの生徒は自分の子どもと同じように大切なんだ」と。「お父さん、あの戦争は、本当に勝てると思っていたの?」と尋ねたことがあります。情報の統制の中で、本当に勝つと信じていたと父は言いました。そして、教え子を全滅させてしまったのだと。

 父は、子育ての中で私たちに平和の大切さをたたき込んでくれました。「戦争はいけない、核は三度使ってはならない」と。「日本には素晴らしい憲法がある。この憲法は、国民の半分が賛成しなければ変えることが出来ないほど、高いハードルで守られているのだ」と。

 私は、学生時代に被爆二世として被爆者運動をたたかったりもしました。仲間の学生と平和公園に座り込んでいたときに、森滝市郎先生が激励に来て下さって、うれしくて涙ぐんだこともありました。

医師になって、私は平和公園のそばに住んでいます。平和公園には世界のどこの国が核実験をしても、冷たい石畳の上に座り込んで抗議する被爆者の姿があります。

 その被爆者も高齢化しました。二つも三つも癌になり、核廃絶という悲願の成就を見ないままに亡くなっています。私に、被爆者運動、反戦運動を教えてくださった近藤幸四郎さんも、石田明さんも、そして、私の父も死にました。

                             (つづく)

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