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どうも大人がおかしい

 昨日土曜日は、連休前だからか、患者さんが多くて、本当に大変だった。午前中の診療が終わったら、4時半。全く患者さんを待たせてしまって申し訳ない。こちらも昼ご飯抜きで頑張ったのだけれど。で、患者さんが多いと、いろいろな人がいるのもそうなんだけれど。前回のブログの続きで、最近、気になる患者さん達のことを。

 まず、この場合は20代の大学生が圧倒的に多い。避妊しないでセックスをしたので、妊娠が心配だから、との来院。アフターピルを求めての来院だけれど、アフターピルというのは、本来はレイプされたとか、コンドームが破れたとかのハプニングが起こった時に出すもの。身体的に吐き気などとても強いダメージを受けるから。それでも、レイプされ、妊娠、人工中絶という二重三重のダメージを少しでも軽減させるためにあるものだ。「避妊しないでセックスしたから、薬を下さい。」と、まるでそれが避妊であるかのような使われ方はしてはいけない。大学生同士で、どうして避妊をしないのか。「めんどくさかった」と。でも、妊娠したら、どうするの?「中絶します」避妊するよりも、中絶の方がいいの?「セブンイレブンでもポプラでも、どこにでも売ってるのだから、買いに行かせなさい。」「いいか、コンドームもつけないでセックスをするというのは、マナー違反。失礼な男だと知っておきなさい。あなたもちゃんとつけてくらいのことは言わないと。自分の体でしょ。」で、結局はアフターピルを出す。でも、条件がある。アフターピルは、一回限りのもの。これからの避妊をどうするのか、ちゃんと彼氏と話をして。もし、不安なようなのなら、自分で低用量ピルを飲んで防衛することも考えて、と、低用量ピルのパンフレットを渡す。

 20代の女性。相手の男性は30代。妊娠している。でも、産めないと。なぜ?結婚してません。したら?そしたら、「まだ付き合い始めたばかりで。よく彼のことも知らないし。」この答えを最近とてもよく聞く。「つきあい始めたばかり」と。「ねえ、まだ良く知らなくても、セックスをするの?付き合うというのは、即、セックスもすることなの?それも、避妊もしないで。」「彼はどう言ってるの?」「まず産婦人科に行って、ちゃんと確かめてから考えようと。」「妊娠反応が出た時点で妊娠はしているのよ。考えるのを後回しなんて、逃げじゃないの?はじめから考えなさい。セックスする前から。いいか、セックスというのは、妊娠する行為なんだよ。」そんな彼女たちも、超音波の診察で胎児の姿を見ると、決まって泣き出してしまう。

 お腹が痛いと来た人は、母子家庭で頑張っている。セックスは長い間していないと。でも、超音波で見ると妊娠している。私は別に、独身の人はセックスをしてはいけないなんて怒ったりはしないよ。でも、事実を言ってくれないと、誤診の元になるからね、ホントのことを言ってよね。彼女もとても産めないという。でも、彼の意向を聞いて見ないと分からないじゃない。避妊をちゃんとしてないのだから、彼にだってそれなりの覚悟があるのかもしれないし。とにかく、しっかり話をして、一月以内に結論を出してね。

 あんまり来た患者さんのことをあれこれ話すことは良くないこと。だから、複数の人たちの例をミックスしている。産婦人科の現場は、決して若い人たちだけが大変なのではない。大人達も大変なのだ。性教育をしてはいけないという人たちに、生徒のうちにしておかないと、何もちゃんと学ばないまま大人になった人たちこそ(男も女も)大変なのですよ、そして、その負担はひたすら女性の心と体にかかってくるのですよ、と、それが言いたいのです。

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性教育の講演

 昨日は母校の広島大学の霞キャンパスで大学生に、今日は市内の中学校で3年生に講演をした。大学生は、ほとんどが医療系なので、知識としてはそれなりにあるはずなのだが、感想文を読むと「知識」としてよりも、物事の考え方、とらえ方に感動したという者が多かった。

 中学生は、今時、どの中学校でもいろいろと大変で、対応に困っている。私は、性について医療の現場で起こっている悲惨な話をいっぱいして、脅してやろう、そして少しでも子どもたちを性から遠ざけてやろう、というような、そんな話はしない。そうでなく、私は子どもたちに力をつけてあげたい。

 「性」というのは、生殖行為、たった一回だって妊娠はする。その妊娠は女のみに起こること。身ごもる性を持っている女性は自分の体に責任を、身ごもらせる性を持っている男は女の体に責任をもて、というのが性の関係を考える上での原則だと思っている。そして、避妊。

 「この中のほとんどすべての人がいつかはきっと避妊が切実になる時がくるからね。時期はみんな違うでしょう。こどもを何人か産んだ後かも知れない、前かも知れない、間を開けたい時かも。それから、今はまだ分からないけれどこの中にも一生セックスをいない人だっているかもしれない。それはそれていいのですよ。みんなしなければならないものでは決してないからね。それから、この中にもこどもが出来ない、不妊症の人がいるかも知れない。それから、中学生にもなったら、そろそろ自分でも分かる頃なのだけれど、人を好きになる時に、異性をではなく、同性を好きになる人だっているかもしれない。それはそれで個人の選択ですからね。人を好きになるときに、男性を女性を女性は男性をしか好きになってはならないものでは決してないからね。ただ、同性同士だと、こどもを作る、妊娠を目指すというのには、いろいろとハンディーがあることは確かだね。そんな人はいるかも知れないけれど、でもほとんどの人がいつかはきっと避妊が切実になる時が来るから。だから、避妊の話をしておきますよ。」といって避妊の話をする。

 それに、性の悩み、ペニスのサイズや包茎やマスターベーションなど。女性の月経痛も。さらに、今、とてもはやっていて、犯罪の温床になっている「出会い系サイト」の危険性についても。などなど盛りだくさんである。

 「性というのは、嫌らしいもの、恥ずかしいもの、隠すべきもの」ではなく、「とても大切なもの、そして素敵なもの。素敵な性が実行できる素敵な大人になって欲しい」そのためには何が必要なのだろう。と、そんな話をしている。だって、今、若者たちをあれこれ言っている大人達こそ、とても貧しい性を実行していると思うから。

 ところで、今日、中学校で講演を終え、会場を出ようとしたら、一人の男の子が手を必死で伸ばしている。駆け寄って、握手をしたら、周りの女子生徒達が、キャーと声を上げた。さらに、出口に近づいたら、4人の男の子が走って来て「ぼくも」という。で、次々と握手をした。うれしそうにしている男の生徒達を見て、私もすっかりうれしくなった。教頭先生によると、昔自分が悩んでいたのもその通りだったから。だから、男子生徒もうれしかったのでしょうということだった。すっかり中学生に力をつけてもらって、帰り道は私も元気だった。

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男女共同参画

 前回の続きです。三井さんの解雇に大いなる働きをした豊中市の市会議員は、今回の選挙で落選したとのことだ。メーリングリストでは「落選、おめでとう」の言葉が飛び交った。この三井さんの不当解雇の裁判について、大阪のテレビ局で子育てをしながら頑張って仕事を続けている若い女性の記者がルポをした。私は何回もそのビデオを見たが
「女には女の役目がある」「こどもを産み育てる事こそ女の仕事」と、何はばかることなく、彼は発言している。一見、社会に受け入れられそうな発言であるが、この論がこれまで、どれだけの女性を苦しめて来たことか。なによりも、こどもを産まない女性を傷つけた。それは、不妊でどうしても出来ない人と、みずから産まない選択をした女性の両方を。

 以前このブログで話した長崎で講演をした筑波大学の教授は、同じ講演の中で、「少子化の時代、女がこどもを産まないのなら、男は二号、三号にこどもを産ませればよい、そのためにこそ助成金を出すべきだ」「「産む能力を失った40を過ぎた女はただの肉のかたまり」「女に物事を判断する能力はない」とまで言っている。(この人の書いたパンフレットが広島のPTAの会で大量に売られた。)この教授が日本の憲法を変えよとか、核武装せよとか、アメリカの銃社会は素晴らしいとかの発言をしていることからみても、右派、ネオコン、好戦論者ほど女性をただの「こどもを産む機械」として見ていることがわかる。柳沢発言は、「いい人」であるはずの大臣が、つい口をすべらせたのではなく、その本質が露呈したに過ぎないと思う。

 女性はこどもを産み、育てながら仕事をしては行けない、こどもがかわいそう。お母さんの愛情たっぷりのこどもを育てないと。と、このような人達の意見が多数派である限り、少子化は改善しないであろう。

 私は、女の産婦人科医が必要だと思った。でも、その仕事のあまりの厳しさに、何度辞めようと思ったことか。まだ産休や育休なんて整備されていないころだったから「まあ、ひまなんだろうから、働きなさい」の当時の教授の一言で、生まれるまで働いた。産後は、まだ一月しかたっていないのに、「麻酔科のローテーションが入っているから」ということで、仕事に出た。二人目こそ、産休を取ろうと思っていたら、その前に早産してしまって取れなかった。保育所は五時半までだから、保育の専攻の学生二人に来てもらって、ベビーシッターをしてもらった。当然、お金がかさんだ。こどもを抱えてアルバイトもできず、大学病院でのわずかなお給料の倍保育料がかかって、経済的には本当に厳しかった。

 そんなこんなで、とてもつらくとも何とか仕事を続けて来たが、これからの若い人にこんなことを強いることば出来ない。当然、こどもを産まない選択をするか、産んだ後、仕事を辞める選択となるだろう。すなわち、子育ての経験をつんだ女性の職業はなくなってしまうということだ。

 性教育の目指すものは、自立した男女が、共に生きること。基本は「一人でも生きられる。二人で生きるともっと楽しい。」ということで、これは、ネオコンの立場からすると、とても都合が悪い教育なのだろう。だって、彼らにとっては、家事がさっぱりできず、一人では生きられない男性と、経済的に自立出来ない故に、一人で生きられない女性の組み合わせが一番理想だということなのだから。男女共同参画をつぶすのと、性教育が出来なくするのと、やはり同じ勢力である。単なる右派、ネオコンと、それにある宗教がからんで、日本でも、とても大きな勢力になっている。考えただけでも、腹立たしい、憂鬱な事である。

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行政に対する暴力

 長崎の伊藤市長が銃殺されたことがあまりにショックで、亡くなってしばらくは、何にも書けなかった。多くの皆様にコメントいただいたのに、ごめんなさい。

 行政に対する暴力は、どこの地域にもあるのだろう。私の裁判は、私がしている性教育に対していわれのない誹謗中傷を雑誌に書かれたもので、その著者と雑誌社を名誉毀損で訴えた。その私の裁判をいつも励ましてくださっているのが、三井まり子さんで、彼女は豊中市を相手に法廷で闘っている。三井さんが、豊中市の男女共同参画センター「すてっぷ」の館長を解雇された。その裏には、「新しい歴史教科書を作る会」「日本会議」に名を連ねる市会議員(なんと、民主党!)と、その仲間らしい右翼がたびたび市役所に三井さんを解雇するように、嫌がらせをしたことが明らかになっている。担当者を監禁状態にして机をばあんと大きな音で叩いたり、あり得ないことを書いたチラシを配ったり。その結果、市役所は姑息な手段を使って三井さんを解雇した。三井さんは、「不当解雇」で厳しい裁判を闘っている。

 広島市でも、秋葉さんが市長になった当初は、外部のいわゆる「ごろつき新聞」と議会の一部の者が市役所の人事まで握っているような状態であった。それに業者の談合が加わる。それを正そうとしたら、その嫌がらせがとても大変だった。私は秋葉さんの功績は、財政再建もそうなのだが、それと一体となった談合の排除、市政の外部の影響を断ち切って、正常化したことにつきると思っている。そこを数々の暴力にもひるまずやりきったからこそ、財政再建も可能になったということだ。暴力は、それはひどかった。とばっちりがこちらに来たこともある。私なんて、選挙以外はなんにもしていないのに、右翼から、「おまえが指示したんじゃろうが」と電話がかかったり、クリニックにまで乗り込んで来たこともある。私は、「私はなんにも知らんわね。」とつっぱねたり、あんまりしつこいと、「営業妨害で警察に言うよ。」とかで切り返す。

 でも、今度の様なことが起こると、若干警戒しなければならないかも、と思う、友人が言う。「だから、こんなことはあることなんだから。言うたでしょうが。あんたも、あんまり過激なことを書いたらいけんよ。」と。このブログには、本音を書こうと思って来たが、誰かを怒らせるとひどい目に遭うかも知れないという警告をしてくれたものだ。うーん、面白くないわね。そう言われると、ますます挑戦したくなるのが、私の性分なのだ。

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餅は餅屋

 咳が止まらない。もう、一体どれだけ風邪を引き続けているのだろう。一旦良くなったと思ったら、すぐに重ねて引くものだから、ずっと風邪が続いている様に思う。熱も下がって、別に胸もゼロゼロ言うわけでもないのに、ひどく咳き込む。診療中も、寝ている時も。診療中は、不謹慎だが、ハッカの飴をなめて落ち着かす。でも、寝る時は飴をなめる訳にもいかない。咳き込んでは目が覚めるので、寝不足になる。家で処方する咳止めは、結構良く効くと評判なのだが、今度ばかりは、それをいくらのんでも治まらない。

 いやーな予感がする。二年と少し前、健診でひっかかって、CTによる精密検査を受けた。そしたら、結核か、肺の転移性悪性腫瘍かという診断でしびれた。呼吸器の専門の病院に行き、つらーい気管支鏡の検査も受けた。そして、「サルコイドーシス」という変な病気だとわかり、ステロイドの大量療法を受けた。顔が副作用によるムーンフェースで、パンパンに膨れて参ってしまった。おまけに、通勤の途中、走っていて転び、肩の骨が折れた。もう、さんざんだったが、時間と共におかげですべてが解決して、快適な健康体となっていた。まさかあの時の肺の再発ではないでしょうね、といささか憂鬱になった。

 でも、どうにもこの咳はつらすぎる。で、自分で治療するのは止めて、耳鼻科を受診した。耳鼻科には、若くて、最新の知識と機械をしっかり使いこなして、的確に診断、治療してくれる信頼するドクターがいる。そして、彼の質問があまりに的確なのに、驚いた。「寝ていて、咳で目がさめますか」「はい、それがつらいのです」「痰はでますか」「いいえ、出ません、咳だけです」そして、きちんと説明してくださった。熱が治まった後のいつまでも続く咳としては、風邪のウイルスのせいで、のどの奥の後側にある咳中枢が過敏になっていること。それは、アレルギーが関係しているかもしれないこと。これらは、いわゆる咳止めが効かないこと。「そうです。いくらリンコデをのんでも、さっぱり効きませんでした。」まさに、我が意を得たり、の心境だ。

 そして、薬を4種類処方してもらった。アレルギーの薬、のどを潤す漢方、そして咳止めと気管支拡張剤。今、飲み始めて二日目。だいぶ改善して来た。

 やっぱり専門に見ていただくというのは、必要な事だと思う。妊婦さんの風邪などは、私が治療をするが、でも、こじらすと大変だから、ちょっとでも悪化の傾向があると、すぐに専門に紹介する。入院のベットを持たない開業医の私などは、産婦人科や内科や皮膚科や外科や整形外科や精神科や、本当にいろいろな所に紹介状を書く。まるで、あちこちに振り分けるのが仕事か、と思う時すらある。患者さんを自分の所で持ちすぎていると、返って迷惑をかけることになる。専門は専門に任せた方がいい。

 私の咳は、今の薬を一週間使っても治癒しなければ、もう一回同じ処方を繰り返してみると、言われた。うーん、長くかかるのかなあ、2.3日でスカッと治るなんてのは、無理なのかなあ。寝不足の頭に咳が響いて痛む。いささかくたびれた。

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長崎市長が撃たれた!

 平和関係の人たちとの会議中「長崎市長が撃たれた」と会議の参加者の一人にメールが入った。騒然としたが、詳しく分からないまま。帰ってテレビを見る。本当に憤りがおさまらない。体が震えて、涙が出て来る。

 ほんの二週間前の秋葉さんの選挙の時。そろそろ相手陣営が焦っていると感じる場面があった。「このままでちゃんと終わりまで行けば必ず勝てます。今、一番気をつけなければいけないのは、襲われることです。気をつけてください。それと、ちゃんとボディーガードをつけましょう」と話した。と、その次の日にすぐ、危ない出来事が二つ起こった。いずれも、周りのスタッフの機転で秋葉さんに直接危害が及ぶのではなく、単に不愉快な出来事として治まった。その夜、もう一度セキュリティーについて話し会った。

 握手作戦で、全く無防備に人に接する。「僕が刺されたりすると、それでもう相手の負けですよ。」と秋葉さんが言うので、「けがだけならそうでしょうが、死んじゃったら、それどころではないでしょう?」と私が言った。そしたら、「鉄砲の弾が飛んできたら、どうしようもないけれど、それ以外は大丈夫です。ちゃんと防御しますから。」と言われる。でも、意図を持った人が一人でもいれば本当に危ない。だから、さまざまな防衛の体制を取った。幸い、広島では無事に終わった。

 あの時に心配したことが、長崎の市長に起こってしまった。心肺停止だなんて。どうか、生きてほしいと思う。そして、広島市長と共に、毎年夏の平和宣言を読んで欲しい。

 それにしても、銃の所持が許されていない日本で、長崎の前市長も現市長も撃たれるなんて、どういう事だろう。以前、長崎で、筑波大学の教授が市町村の長や議会の議長などを集めて講演をした。「アメリカの銃社会はすばらしい。スイスは、家庭にみんなライフルを持っているから、こわくて犯罪は起こらない。早く憲法を変えて日本も核兵器を持つべき。平和宣言を読む長崎市長は゛きちがい゛」なんて、ひどい内容で、大問題となったことがある。この人の書いたパンフレットが広島のPTA協議会で大量に売られたので、この講演のことを私の裁判の証拠として提出した。まさか、この講演が影響したことはないでしょうね。今日、アメリカの大学で銃の乱射の事件があり、33人もの犠牲者がでたと長崎市長の事件と並んで報道されていた。人を殺したいという意図を持った者が銃を簡単に手に入れられるような社会では、もっともっと恐ろしい事態が頻発するのではないか、と、身震いする思いでいる。

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京都で会議をしてきました

 今日は、性教育に関して大切な会議があるので、日帰りで京都に行ってきた。全国の性教育に取り組んでいる産婦人科医でネットワークを作っている。その世話人5人で今後の方針をいろいろと決めた。初めは5人で作ったが、段々と拡がって、3月に開催した会は40人を越えた。若い人たちがどんどん加わってくれて頼もしい限りだ。

 その会で。2年ほど前、会議が済んだ後の懇親会で、東北の若い男性が「みなさん、これを見てください。一枚だけですから。」とスライドを映した。「私の小学一年生の娘が見ていた雑誌です」と。その本を開いてデジカメで写してスライドにしたものだ。それを見て、みんな驚いた。二ページの記事の見出しは大きく、「小学校卒業までにくわえたおちんちんが10本」と書かれていたのだった。小学生が読むような雑誌でこんなことが振りまかれている。「おい、これを持って国会へ行って来いよ。山○え○子に見せてやれ。」と口々に言う。山○さんは、国会で率先して性教育をつぶして来た人だ。

 今の社会は、私たちが若かったころには想像もつかないほど、性に関しての情報が溢れている。でも、そのほとんどはこのような、興味本位で、間違った情報だ。その様な情報の渦の中にいる若者達に、真っ向から正しく情報を与えること、そして力をつけてやることが絶対に必要であると私は考えている。それは、産婦人科という医療の現場にいて、こどもたちが情報にふりまわされながら、無知であるが故に行動を取り、その結果、悲惨な事態に巻き込まれている、その実態にいやというほど接してきたが故の、当然の信念だ。

 私は、産婦人科医となって35年。性教育に本格的に取り組み始めて、25年。事態はどんどんと悪くなり、教育の現場も逆へ、逆へと向かっている。性教育とは、いのちの教育である。いじめや自殺などの教育の現場で事件が起こる度に、性教育がもっとなされていたなら、と悔しい思いをする。性教育は若者にセックスをすることをけしかけていると、極めて不勉強でかつ悪質な意図を持ってつぶそうとしている人達と、どれだけ闘って来たか。

 明日はその裁判。広島地裁の小さな法廷で、ひっそりと、しこしこと裁判を続けている。

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選挙を終えて

 今日は、選挙がすんで一週間、スタッフが集まって今後をどうするかの会議だった。MLで集合!!と呼びかけただけなのに、18人も集まった。これから、HPをどうするか。やはりこれから秋葉市政の三期目を見守り、支援して行く為に、置いておきたい。前回は閉鎖したために、そのタイトル(アドレス?)が取られてしまって、みこし連でアクセスすると、へんてこりんな外国人のヌードが現れた。それをまた買い戻すには、とてもお金がかかるということなので、放っておいた。秋葉さんが三期目就任してすぐ市役所の幹部にした訓辞がとても良かったということなので、それも、HPに載せたいし、例えば選挙中には言えなかった、そしてあまり知られていないことで、裏話などがいっぱいある。それらを有志が書いて載せるのも面白いとか。アイデアが次々と出てくる。HPを作ってくださったMさんは、残すのはいいけれと゜、素人が作った物なので、このままでは恥ずかしい、プロのデザイナーに頼んでちゃんとした物にして残して欲しい、と言われた。でも、みんなは、みんなで作ったHPの内容は充実していたし、デザインとても良かったではないか、素人が作ったと言っても、それがボランティア選挙なのだから、今からプロに頼む必要はないですよ、と言った。結局管理者もMさんのままで、残すことにした。

 そして、会計責任者のKさんが、ほぼ帳簿の整理は終わったと言った。投票がすんで15日以内に報告書を提出しなければならないので、会計担当は大変だ。この一週間がんばった。結果、選挙はボランティアとカンパですべてまかなえた、と。私たちは政党ではないので、団体からの寄付は受け付けられない。すべて個人の寄付である。大っぴらにしてもいいと思うが、約一千万である。政令指定市の首長の選挙にしてはこの金額は画期的だと思う。

 県知事の後援会のお金の不透明な処理が問題になって久しい。びっくりするのは、知事選に関して、沢山のお金が必要だったということだ。どうして、そんなにお金が必要なのだ゜ろう。あれだけ公職選挙法が何でも事こまかに規定している中で、そんなお金が飛び交っていることに、司直の手が入らないのだろうか、と思う。実際それだけのお金が選挙を戦うために必要だったというだけでなく、議員にも何千万のお金を配っていると報道された。選挙にかこつけてお金をせびるなんて、何とも不可解なことだ。

 というようなことも話に出て、多いに盛り上がった。民報は、午後8時に一斉に当選確実を打ったのに、なぜNHKだけ開票開始の午後9時20分まで出さなかったのか、という話にも、ふうん、という事実があってみんなでびっくりした。

 それぞれ自分の意志で選挙運動に加わった者なのだが、やはり自分自身のために、参加して良かったね、人生が充実したね、という事だったと思う。

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眠いのは熱でした

 昨日、岡山から帰りがとても眠かったと書いたら、何人もの方に「疲れでしょう」と言っていただきました。「年でしょう」というのは、お一人もありませんでした。ありがとうございます。

 ところが、今日も眠くて眠くて、体はだるいし、食欲はないし、どうも変だ一体どうしたんだろう、と、一日過ごして夕方ふと思い当たった。体温計で計ってみると、38度も熱があった。ああ、これだ。これでナゾが解けた。検査技師さんにインフルエンザテストをしてもらったら、陰性。でも、咳が出るから、これは単なる風邪だろう。今日はとても大事な会議があるので、葛根湯をのんで、自転車で会議に。しんどかった。帰りの自転車はよろよろする。帰ってまた計ったら、39度。子供用の熱さまシートをおでこに貼って、ボルタレンを二錠のんだ。これで熱も下がるだろう。

 思い返してみれば、前回熱を出したのは、秋葉さんの最初の市長選で、8年まえだ。この時はインフルエンザにやられた。まあ、8年ぶりの熱なんて、私も本当に健康体なんだと、改めて思う。下半身がとてもだるいけれど、もうすぐボルタレンが効いて楽になるでしょう。明日は、週の内の一番患者さんが多くて、しんどい日。その後、また別の会議がある。

 原因が分かって一安心。皆様、ご心配をおかけしました。今日はもう休みます。

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今年度初めての講演

 今日(といってももう昨日だけど)木曜日は今年度初めての講演だった。私の大好きな岡山の学校の新入生に話をした。ここは、さまざまなコースがある。普通科には単なる進学コースだけでなく、スポーツコース、音楽コース、公務員資格コースなどに分かれる。他、自動車科、調理科、機械科、土木科などがある。スポーツコースはゴルフの専攻もあって名の知れた女子ゴルファーもいた。が、このコースは今年やめたと聞いた。高校生にお金が動いて、よろしくない、との判断だと聞いて頷けた。

 今回は三回目の訪問だが、初めて行った時、自動車科の生徒が作った水陸両用車を見せていただいてびっくりした。ちゃんとナンバープレートも取ってあって、公道を走れる、と。80万円代で売りに出せると聞いて、私は予約をしていたのだが、まだそれは果たせていない。が、校長先生は、ちゃんと私が予約をしていることを覚えていて下さって安心した。これで、道路を走って、川にそのまま入って、また陸に上がって通勤すると、気持ちがいいだろうなあ、と楽しみにしている。

 ここはもう一つ特徴がある。マイスタースクールといって、毎週木曜日の二時間、外部講師の授業を受ける。これがびっくりするほどいろいろとあって楽しそうだ。華道、茶道、書道なんてのは、どこの高校でもありそうだが、手品、ハングル、足つぼ、お菓子作り、ホームヘルパー二級、鳥人間(実際琵琶湖の大会に出場する)、手話、太極拳などとてもはば広い。今年からビリヤードも加わった。これを一年間ずつ、計三年間学ぶので、みんな三種類、結構ちゃんとマスターする。

 進学コースの生徒は補習授業もあって、しっかり勉強をするし、調理科の生徒は卒業と同時に調理師の資格が、自動車科の生徒は整備士の資格がとれる。それに、50CCのバイクのエンジンの車、ゼロハンカーを手作りして、「全日本高校ゼロハンカー大会」を主催したりもする。周りの中学校に出かけて行って先生の車の整備をしてあげたりもするから、学校の宣伝にもなっているそうだ。

 要するに、自分のやりたいことをしっかりのばすことができるカリキュラムがそろっているので、生徒達がきらきらしている。そこで、今年度初めての講演が出来たので、うれしかった。これからも毎年来るようにと言って戴いてますますうれしい。校長先生は、こんな話を文科省がさせないようにしているのが、どうしてなのか、さっぱり分からないと言って下さった。ここの生徒達は私の話が聞けて幸運だとも。ありがたいことだ。

 ところで、帰り、車を運転していて、眠気が来て困った。いつもは眠気覚ましにガムをかむのだが、今日はこんなものではさっぱり効かない。高速道を目を開けているのが、精一杯。ふと、居眠りをしそうになってひやっとして、怖くなった。小谷のパーキングにやっとの思いでたどりついて、運転席を倒して少し眠ったみたい。そして、売店でリポビタンDを買って飲んで、ニッケ飴も買って、それをなめながら、無事家にたどり着いた。こんなことは今までなかった。疲れだろうか、それとも年か。これから、できるだけ自分で運転するのでなく、JRなどを使った方がいいのかなあ、と、多少自信をなくしてしまっている。

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不思議三題

 あまりに大きな課題をやった後はなかなかすぐにはその総括などは書けない。多くの方に良かったですね、とか、おめでとうと言われているが、疲れと心中いろいろあったりして。また、時間をおいてぼつぼつ書いて行くつもりである。まずは、軽いことからなら。

不思議1.選挙の当日もポスターが破られた。朝早くに呼び出されて事務所に駆けつけた。初めは安芸区、それから中区、そして安佐南区。事務所にはせ参じた者が手分けして警察と共に現場に行く。その一つの現場で。検分がすんで新しいポスターを貼ろうとしたら警察官が「貼ってはいけない」と言った。ポスターを貼るのは選挙運動だから。投票当日はもう選挙運動はしてはいけない事になっている。これは、選挙管理委員会から言われたことだ、と。投票所の近くの掲示板で、次々と選挙人が通るところで、ポスターが一人だけなくなっているのだから影響大である。その場に行った者が警察官をどなりつけて、強引に貼ったという。破られた所に貼るのも本当に選挙運動なんだろうか。本当にそれもいけないと決められているのだろうか。

不思議2.選挙の後、一週間しての臨時のみこし連総会を企画した。完全なボランティア選挙で、本当に沢山の方達が参加してくださった。その人たちと総会で総括をしたいと考えた。会場も取って、皆さんにお知らせしようとしたところにストップがかかった。選挙後はあらゆる集会は禁止されているのだと。公職選挙法の本を調べてみると、まさにそう書かれていた。もちろん、私たちは経費については参加費を払って戴いてするつもりだったのだが、事後饗応が行われる危険を考えての法らしい。結局、みんなでこの選挙をやった、その当人達で語り合うことは出来ないということだと分かった。寂しい話だ。

不思議3.選挙中は更新が禁止されていたみこし連のホームページにもう解禁されたので、「皆様ご支援ありがとうございました。」と書こうとした。が、公職選挙法に「お礼の掲示」は禁止されていると分かった。インターネットの画面は文書図画とみなされ、掲示となって違反なのだそうだ。だから、お礼は書けない。私のブログもその可能性があるらしい。でも、寄せられたお祝いの言葉へのお礼の文書は許されている。だから、お祝いの文書を下さった方のみへのお礼は書いてもいいのだそうだ。

本当に不思議で不自由な、常識を越えた法律が公職選挙法であって、つい普通に対応しようとすると、違反を犯しているということが起こり得る。「知らないで違反をするのが一番こわいのだから」と、ずっと言い続けて、でも、その言っている本人が危うく違反をしそうになって、怖い事であった。

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桜三題

 平和公園の桜がそろそろ散り始めた。毎朝、少し遠回りをして、桜を見あげながら自転車で通勤する。桜は、満開の時よりも少し散り始めた時が好きだ。

 30年前、二人目を妊娠中の桜が満開の頃、まだ予定日よりも二ヶ月近くもあるのに、早産してしまった。子どもは小児科の保育器に入って、私は産婦人科。別々の入院で、切ない思いで毎日保育器をのぞきに行っていた。そんな夜、夫が病室にでっかい桜の枝を持って現れ、びっくりした。広島県警の記者クラブで比治山にお花見に行ったのだそうだ。そして、本部長に入院している女房に桜を見せてやりたいから一枝折ってもいいかと尋ね「許可する」と言われたので、折ってきたのだと。私は、病室で花見を堪能した。今だったら問題になるだろう、古き時代の話だ。

 20年前、「さらば、悲しみの性」という本を出版し、期せずしてベストセラーになり、話題となった。あるフェミニズムの大学の先生が、その著書の中でこの本を非難した。あまりの無茶な批判に反論しようと、ある週刊誌に彼女への反論を書かせてもらう準備をしていたところ、もっと大御所のフェミニストにそれをつぶされてしまった。私へ「やめろ」というしつこい電話だけでなく、週刊誌の編集長にまで圧力をかけてやめさせたと知った時、大きな挫折感を味わった。うつになって何にも文章が書けない。その時、丁度二冊目の本の準備をしていて、後書きのみ、となっていたのだが、その後書きが書けない。悶々としていた時、平和公園の桜がどんどん散っていて、その下を自転車で通り抜けた。私に桜の花びらがまるで雪が積もるように降りかかって、その時、アッ!吹っ切れた!と思った。そして、後書きもすらすらと書いて、無事出版にこぎ着けた。

 10年前、母が脳血栓の後遺症と、腎不全による透析患者で、父が介護をしていた。透析の病院まで歩いて行けるように、私の家の近くに両親を呼んで生活をしていた。平和公園の桜が満開の時、父が車椅子を押し、桜の下を往復してお花見をしたのだそうだ。そして帰ろうとしたら、母が
「もう来年は見られないかも知れないから、もう一回、見せて」
と父にいい、もう一度桜の下をゆっくり往復したのだと。その夏、母は死んだ。その後、桜が咲く度に父は、私にその話をしていた。その父も、もう今はいない。

 そして、今年。また桜吹雪の下を自転車で走って見よう。明日くらいが丁度いいだろう。私の中の何かが吹っ切れて、また意欲がわいてくるかも知れない。
 

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60才、還暦だ!!

 4月2日は私の記念すべき誕生日だった。60才、還暦だ。ぎゃー、還暦だって!!私が60になるなんて。まあね、長く生きていれば、それだけ歳も取るということだ。まさか、自分が60まで生きるなんて、考えたこともない。子どものころからなぜか、いつも自分は早死にだと思っていた。その私がここまで生きて来たのだから、さあ、ここからおまけの人生をどう生きるか、ということだろうね、と思う。
 朝、職場に行ったら、スタッフのみんなが「お誕生日おめでとうございます。」と、プレゼントを渡してくれた。紙袋に二人分の食器のセットと二つ折の写真の台紙が入っている。まあ、びっくりした。二日前に写真を撮らせてくださいと言われ、取ってもらった白衣の姿の写真に赤い帽子とちゃんちゃんこが貼り付けてある。赤いちゃんちゃんこなんて、絶対いやだと思っていたが、こんな手段があったのね、まあ、りっぱな還暦の写真だわ、と、笑い転げてしまった。ありがとうね、大切にするよ。
 患者さんからバラの花束も送って来た。
 そして夜、事務所で突然、「今から河野さんのお祝いをします。」と言われて、びっくりした。立派なケーキ、お花、プレゼントのマウス。そして何十年ぶりに聞いただろうか、「ハッピバースデイトゥーユー」の歌。もう、涙が出そうだ。娘と息子からも電話が入る。息子なんて、お金を送ってという時以外は電話なんてかけて来ないのに。「こんなことで電話くれるなんて、めずらしいね。」と言ったら「まあ、60才だから」と言った。これまで自分の誕生日なんて、何事もなく通り過ぎていたのに、今回はいろいろとして戴いて、本当に一生の記念に残るに違いない。
 ところで、ひとつ大問題があった。地元の新聞が各候補を応援している人を取り上げると。そして、私たちの所は、私だと。インタビューと写真は早くにすませた。それを4月の1日に載せるということであった。で、歳を聞かれて、59と答えておいた。そしたら、広陵高校が勝ったので、紙面の都合で2日になるとの連絡があったそうだ。そう、と答えていて、ふと気づいた。え?2日なら、歳がちがうよ。60だわ。どうしてくれる。たった一日の違いで、私は60と出るの?記者に連絡をして、そのままにしておいてくれる?と言ったら、やはり正確でないといけないので、修正させて戴きます、とのことだった。ふうん、たった一日の違いで、まるで一年も違うような気がするもんだ。でも、結局は、紙面に載るのは、4日になったらしい。そしたら、60ももう3日目だから、ま、いいかっ、とそう思った次第です。
(ここまで3日に書いて、アップしようと思ったら、ココログが3日の15時から4日の15時まで、24時間もメンテナンスでアップ出来ないと分かった。ひどいね。あらかじめ連絡をくれたらいいのに。きっとなんらかの手段で警告はあったのだろうが、私の目には入らなかった。で、結局とぼけた原稿になってしまったようですみません。)

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40年ぶりの出逢い

 診療の休診日には出来るだけ街頭に付いて行ってマニフェストを配ったりする。先日もスーパーマーケットの前で配っていたら、一人の男性がじっと私を見ている。そして、「もしかして長谷川美代子さんではありませんか」と旧姓で問われた。はい、そうですが、と答えてみても、どなたなのか分からない。「大学の演劇研究会で一緒だった○○です。」と言われて思い出した。昔一緒に舞台に立った人だ。大学時代、椎名りんぞうの長編の芝居をやったことがある。戦後のどさくさの中で闇物資を作っているあやしげな工場で働いている母娘、私はその知的障害のある娘役。声をかけた人は、そこの工場長で私を愛人にしている人。今もその台詞の一部は覚えている。私の給料をアップして1万円にしてあげるという工場長に「ああ、うれしい。私はやっと一万円の女になったのね。」と私が言い、母親役が「一人前と1万円と間違えているんですわ、この子は。」と言う。演出は当時の渡辺さん、後に山崎哲となって劇団を主催したり劇作家兼コメンテーターでテレビで良く顔を見るようになった。懐かしい人に、40年ぶりで出会った。今、その近くで塾を経営しているという。よくぞ私と分かってもらったもので、ありがたかった。

 当時は私はまだ20才そこそこで、本当に演劇がしたかった。高校を卒業する時になんとか東京へ、と思ったが、絶対に親が広島を出さないと言った。二人の兄達は大学は県外に行ったのに。女の私はダメだと言う。広島の大学に入ってからも演劇への夢は絶ち難く、大学や地元の放送局の劇団でやってはいたが。ある日大決心をし、計画を立てた。食べるものも食べないで頑張ってお金を貯めて、東京へと脱出。ある劇団に入るつもりであった。が、山手線の中で全財産の入ったバッグを紛失し、とぼとぼと広島に戻ってしまった。「東京が私を拒否している。広島で生きろということなのね。」と。

 以来、40年。広島に根付いて生きている。このまま、私の人生は終盤を迎え、終わるのかね。そんなことを考えている時の出逢いであった。若い時を振り返るのは、歳を取った証拠だと言われても、複雑な思いにならざるを得ない、そんな出逢いであった。

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