教師による性暴力④
私は、教師になろうとする人は、「性教育」を学ぶべきだと思っています。それも「包括的性教育」ですね。性教育というと、いまだに「セックスの仕方を学ぶもの」というような、偏見に満ちた間違った思いを持っている方がいます。残念なから、それは文科省や教育委員会などの教育現場を牛耳っている方に多いのですが。せいぜい、体や妊娠や性感染症を学ぶものと思っている方も。それは性教育の一部でしかありません。
性教育は人権教育です。人間関係の作り方を学ぶものでもあります。人と人が向き合う時、自分も相手も感情を持った人間であって、思いがお互いに一致した時に初めて許しあえる関係となりえます。そこにあるのは、あくまでも「対等な関係」です。決して、一方的な、支配被支配の関係ではありません。幼児性愛の何が間違いかというと、それは「対等な関係」ではなく、一方的な支配の関係であるからです。
私は、幼児性愛の人が、自らの性欲が向く子どもが沢山いる教育現場にはいてほしくないと思っています。それは、その人の性欲を喚起する場となるからです。でも、「子どもが好きで」「子どもの教育に携わりたい」という教職希望の人から、どうやって、その人が危険であるかどうかを見分けられるのでしょうか。
私は、何より教師の採用を決める方たちにこそ、「性教育」を学んでほしいと思っています。そのうえで、採用試験に「性教育」を導入するのです。あくまでも採用する方が学んでいないとこれはだめになるのですが。そうしないと、例えばLGBTQの人への偏見を持たれると困るのです。教育現場では性の多様性を教えていかなければならないのです。
たとえば、私がこのシリーズの最初に取り上げた、何人もの小学生を「強姦」した小学校の教師に懲役30年の判決が下りたという新聞記事でもいいですから、それを試験問題として、「これを読んで自分の考えを書きなさい」とか。採用試験を受ける人達でグループでディスカッションしてもいいでしょう。もちろん、その罪を犯した教師の味方をする人はいないし、自分が小児性愛であるということも言わないでしょう。しかし、その文章やデスカッションの中に、性をどのように捉えているかは必ず出て来ると思います。
要するに、性教育を隠蔽するのでなく、堂々と語り合うこと。恥ずかしいものではなく、大切なものとして。日常的に語り合える状況ができたなら、と思うのです。性犯罪というのは、隠されたところでなされます。間違えないでくださいね。猥談をしろと言っているのではありません。猥談は、必ず誰かを傷つけます。もっとも多いのは、「女性を」傷つけるということ。そんなときに、その発言はおかしいですよ、と堂々と言える環境が欲しいと思うのです。
はじめから出来上がっている人はいないし、出来上がった環境もありません。みんなで切磋琢磨するうちに、徐々に性暴力のない社会ができていくのではないでしょうか。そのような環境であれば、いやな思いをした時に、どなたかにそれを訴えることができるでしょう。
私自身を振り返ったとき、やはりいろいろとあったなあと思い出します。小学高学年の時、向こうから来た男性の先生が、私に長谷川さん(私は旧姓長谷川です)、バンザイをしてごらんと言われて、両手を上げたら、コチョコチョと言って、両脇の下をくすぐられました。ワッと言って飛びのきましたが、あれはなんだったのでしょう。今思っても不愉快。海で泳いていた時に、近づいてきた男性の先生が、私を抱きかかえて、両足で私の両足をぎゅうって挟まれて、先生の股間が押し付けられました。海の足の届かない所で、立ち泳ぎをしなければならないのに、死ぬかと思いました。あれも何だったのでしょう。性暴力というほどの物でもなくっても、いろいろと不愉快な触られ方をされたなあというのが残っています。この年になっても、まだ明確な記憶として残っています。そういえば、ほかのクラスの男子が何人も担任の先生に抱きかかえられて、性器を握られ、気持ちいいでしょうと言われたと。これは、そうされた何人もがみんなで、先生、あんなことはしないでくださいといっても、聞いてくれなかったので、校長先生に言いに行ったと聞きました。その後、あれはどうなったのでしょう。まだ性暴力なんて言葉も知らない頃です。大昔の話です。大昔からこんなことが行われていたということです。
この項、まだ続きます。
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